作家が死ぬということ

 僕のマイミクで、ライトノベル架空戦記・時代小説作家の中里融司さんが、18日朝、大腸ガンで亡くなられた。52歳。僕よりひとつ歳下である。

 コミケでお会いするぐらいの関係で、作品も数冊しか読んだことがないのだが、普段からmixi日記はよく読ませてもらっていた。 同じ職業だけに、日記の内容は共感することが多く、身近に感じていた。

 当然、病気で入院されたことは知っていたが、数日に一度、日記をアップしているぐらいだから、たいしたことはないのだろうと思っていた。

 いきなり亡くなるなんて思ってもいなかったから、ショックが大きい。

 最後の日記は6月11日。亡くなられる1週間前である。

 入院していたが一時期帰宅し、マンガ(『ヤングアニマル』連載の『砂漠の獅子』)のシナリオを書いて送信した……てなことが書いてある。

シンケンジャーが面白い」てなことも。

 入院中も病床で原稿を書いていたり、ゲラチェックをやられていたようだ。最後まで作家だったのだなあ。

 最後の日記を読み直して、僕が何に一番ぐっときたかというと、送ったシナリオが「第7回」だということ。

 つまりこのマンガは、もう永遠に完結することはないのである。(マンガ家が独自に描き続けるかもしれないが、それはもう中里さんの「原作」ではあるまい)

 僕にとって、これは悪夢である。

 今、『地球移動作戦』の最終回の原稿をひいこら言いながら書いている。来月は『去年はいい年になるだろう』の最終回である。

 僕が今、急死したら、これらの作品はラスト目前で完結せずに終わってしまうことになる。

 それは嫌だ。ものすごく嫌だ。

 物語は、書きはじめたからには、きちんと終わらせなくてはならない。それは続きを読みたがっている読者に対する責任であるし、作家自身に対しての義務でもある。 ゴール直前で倒れるなんて耐えられない。

 きっと、病院のベッドで最後まで「原稿、原稿……」とうなっていることだろう。

 それはもう、化けて出たくなるぐらい悔しいに違いない。

 実際、『トリニティ・ブラッド』完結直前に亡くなった吉田直氏の例もあり、そういうことがないとは言えない。吉田さん、悔しかっただろうなあ。

 だからきっと、中里さんも無念だったに違いない。

 もっと書きたいものがいっぱいあっただろうに、彼の頭の中にはいろんな構想があっただろうに、それはもう誰にも知られることはないのである。

 だから僕は「安らかにお眠りください」とは言えない。

 同じ作家として、彼の心中を思うと、「安らかに」なんて言えるわけがない。

 安らかに死ねてたまるか。

 きっと連載やシリーズを抱えた作家はみんな、完結させられない無念、構想を具体化できなかった無念を胸に、死んでゆくのだと思う。