毬江がテレビに出なかったわけ

活字倶楽部』2008年秋号の有川浩ロングインタビューの中で、アニメ版『図書館戦争』のこんな裏話が披露されていた。

有川 (中略)例えばアニメで、小牧と毬江のエピソードが地上波で放送されなかったのは、毬江が聴覚障害者だという設定だったからなんです。毬江のエピソードはTVではできません、ということがアニメ化の大前提だったんです。それを了承してもらわないと『図書館戦争』はアニメ化できません、と真っ先に言われたことがとても衝撃的でした。(後略)

 やはり。原作では印象的なキャラクターである毬江がテレビに出てこなかったのは、そういう裏があるのではないかと思っていたのだが。

 ちなみに、DVDの3巻には毬江の登場するテレビ未放映話「恋ノ障害」が収録されているのだそうだ。

 これがアニメ版の毬江の設定。声は植田佳奈か。うーん、テレビで見たかった。

 原作を読まずにテレビ版しか見ていない人は、そもそもメディア良化委員会が何のためにどんな基準で本を狩っているのか、よく分からなかったのではないだろうか。単純に体制に批判的な本だけを弾圧していると思っていたのではないか。

 原作で重要な役割を果たすのが、『レインツリーの国』という小説である。主人公の笠原郁は高校時代、この本を書店で買おうとして、良化隊に取り上げられそうになった。そこを堂上に助けられたことが、彼女に図書隊への入隊を決意させるきっっかけになったのだ。

レインツリーの国』は『図書館戦争』のスピンオフ作品として、作者自身によって執筆された。お読みになればお分かりだろうが、美しい恋愛小説である。しかし、ヒロインが聴覚障害者であり、「違反語」が使われているという理由で、『図書館戦争』の世界ではこの本が狩られているのである。

図書館戦争』の世界は絵空事ではない。現実に起きていることだ。この話をリアリティがないと思うのは、出版界や放送界の実状を知らない人だろう。

図書館戦争』の世界と違うのは、「違反語」リストを作り、それに従って言葉を狩っているのが、政府が作った良化委員会ではなく、出版界や放送界自身だということ。「メディア良化委員会」とは、実はメディアそのものなのである。

 僕自身の体験を書こう。

 2006年10月、 『TVブロス』のカンヌ映画祭についての記事の中で、ライターが露骨な差別表現を使ったという事件があった。ライターもライターだが、通してしまった編集者も不注意である。要するに差別問題に関する知識も関心も自覚もまるでなかったわけで、問題になるのは当たり前だ。

 ところがその一件で、大手出版社がいっせいに過剰反応した。それまでOKだった、どうということはない表現にまで、過敏にチェックが入るようになったのだ。

 そのとばっちりが僕にも来た。ちょうど『神は沈黙せず』の文庫版のゲラチェックをやっていたのだが、いったん戻したゲラに、校閲者による膨大な数のチェックが入って戻ってきたのである。どれも単行本ではまったく問題にならなかった箇所だ。修正しろという命令ではないが、あらためて表現に一考をお願いする……というのである。

 どんな表現にチェックが入ったか、実例を挙げよう。

>ネットに流れた情報だけを盲信した人々が

>精神病院に入院させられているとか

>地球が狂いはじめているのではないだろうか

>狂信的な熱情にかられて行動した

>たちまち悪臭漂うスラムと化した

>自分の中にも狂気がひそんでいる可能性

>強いボスに盲従する猿たち

>いみじくもドーキンスが言ったように、「盲目の時計職人(ブラインド・ウォッチメイカー)」なのだ。

>兄は狂っているのだろうか。

>よく発狂しなかったものだと

>悲しみのあまり狂乱したことも

>怒り狂った群集によって

>頭のおかしい人間が行なった未熟な犯行にすぎず

>ポルターガイストの荒れ狂う施設 !

>熱狂的な加古沢ファン

>精神錯乱が多発した

>ファンの狂騒に踊らされることは決してなかった

>狂気と正気の境界線をどこに置くか

>狂気に蝕まれている自分に言い聞かせた

 これでもチェック箇所のごく一部にすぎない。 つまり「狂」「盲」という字すべてにチェックが入っているのだ。たまらん。

 だいたい『ブラインド・ウォッチメイカー』を他にどう訳せと? つーか、「ブラインド」はOKで「盲目」はダメという根拠は何だ?

 いちばん笑ったのは、

>私はぽかんと口を開けた。盲点だった。

「盲点」にもチェックが!?(笑)そりゃ盲点だったわ。いやもうこれは床にひっくり返って笑ったよ。 のちに「七パーセントのテンムー」を書いた時に、ギャグのネタにさせていただいた。

>馬丁の娘

>老婆の横顔

 という部分にもチェックが入った。「馬丁」も差別語とは知らなかった。つーか、これをどう言い換えろというのだ?

 なぜ「老婆」が差別語認定されているのか、編集さんも首をひねっていた。おそらく、かつて「婆あ」という侮蔑的表現が問題になったことがあって、そこから拡大解釈して「婆」という漢字すべてを自粛することになったのではないかと想像するが、今となっては真相は分からない。

>電波系

>サイコキラー

 という単語にもチェックが入った。「サイコ」という言葉がまずいらしいのだ。冗談じゃない! ヒッチコックの映画はどうなるんだ!? だいたい、「サイコキラー」なんて言葉、日常的に使ってるだろ。

>かなり節操のない日本的キリスト教徒だったようだ

 という部分にもチェック。「『日本のキリスト教徒は節操がない』と誤読されるおそれがあるのでは?」というのである。いねーよ、そんなひねくれた誤読する奴。お前だけだよ。

>日本各地の福祉施設に収容された何千人もの子供たち

 という部分にもチェックが入った。「収容」という言葉がいかんので「預けられた」に改めろと指示された。なぜ? 分からん。

 さらに笑えたのが、アメリカ国内でイスラム原理主義者やキリスト教右翼によるテロが起きるというくだり。校正者の意見によれば、

「フィクションですが、偏見を助長するおそれがあるのでは?」

 アホかああああーっ!

 実在の集団による犯罪行為をフィクションの中で描いてはいかんというのなら、スパイ小説もポリティカル・フィクションも書けんようになるわーい!

 出版業界で生きる人間が、自分の首絞めてバラバラにして埋葬するようなことを言い出すんじゃねえええーっ!

 こんな箇所にもチェックが入った。

 あるいは、ネットでベストセラーになったコミック『サンバーン』の作者、三崎純へのインタビューという話もあった。参考のために読んでみた私は、すぐに編集者に電話をかけ、「この仕事は別の人に回して」と依頼した。身障者の少女をレイプし、いじめ抜いた末に殺害する主人公の姿と、それをギャグを交えてあっけらかんと描く作者の姿勢は、私には反吐が出そうなほど不快だった。紙の本が出版物の主流で、出版業界のモラルが守られていた時代には、とうてい陽の目を見なかった作品だ。こんなものを描く人物がいることにも、それを夢中になって読む大衆がいることにも、やりきれなさを覚えた。

 だからさ、主人公は差別意識に対する激しい怒りを表明してるんだよ? あんたちゃんと文章の意味、理解してる?

 25章のこんなくだりにもチェックが、

 テキサス州アマリロの市庁舎では、玄関ホールの天井から長さ五メートルもある巨大な足がぬっと突き出した。職員や市民を驚かせただけで、すぐに消えてしまったものの、監視カメラには人間の一〇倍ぐらいのサイズがある白い素足がはっきり映っていた。明らかに黒人の足ではないことから、白人優越主義者はまたもや「神は白人であるという証明だ」と主張した。

 ところがその四日後の夕刻、今度はニューメキシコ州フォート・サムナー郊外の住宅街に、巨大な裸の黒人が出現した。それは一〇人以上の目撃者たちの前で、身長一・二メートルから六メートルまで大きさを自由に変えたという。今度は黒人たちが「神はやっぱり黒人だった」と主張する番だった。

 どこがまずいと思います?

 なんと、「黒人」という単語すべてにチェックが入ってるのである! ええー、「黒人」もNG用語!? んなアホな!

『神は沈黙せず』をお読みになった方ならお分かりのように、この小説には僕自身の、身障者差別・人種差別・民族差別に対する強い嫌悪が随所に反映されている。

 差別問題を扱うのだから当然、差別的発言をする人物も出てくるわけだが、それにすべてチェックが入った。「朝鮮の手先」「あつらは犯罪者ばっかりだ」とかである。

 だからさ、この小説は差別を糾弾してる内容なのに、何でびくびして自粛しなきゃならんわけ? おかしいじゃん!

 最初は笑ってたが、だんだん腹が立ってきた。

 この校閲者、自分では何も考えてない。機械的に「狂」「盲」という字を検索して鉛筆でチェックを入れているだけである。ある表現が差別に当たるかどうか自分で判断することを放棄し、著者に全責任を押しつけている。それはつまり、「私は差別問題なんか分かりませーん」「責任とりたくありませーん」と宣言しているようなもんではないか。

 そういう意識こそ差別なんだと、どうして気づかん!?

 でもって、これまで小説の中で何度も差別問題を描いてきた僕が、何で今さら糾弾を恐れなくちゃなんないんですかい!?

 こわくないよ、そんなの。万が一、人権団体に糾弾されたって、これまで自分が書いてきたものをずらっと並べて、「あなたの方こそ不勉強です。これを読んでください。僕はこういう作家です」と、逆に教育してやるよ。

 こうした「違反語狩り」が本当に差別をなくす目的ならいいことだろう。だが、現実は正反対だ。違反語リストを作って自主規制をしている人たちは、単純に言葉の言い替えで済ませているだけで、差別問題の本質など考えようとはしない。それどころか、障害者の抱える問題をリアルに描く作品や、差別を批判する内容の作品すら規制しようとする。

 違反語狩りは差別問題への真摯な取り組みなどではなく、正反対である。現実に存在する問題から目をそむけ、口をつぐむことで、被差別者についての正しい理解が広まるのを妨げ、間接的に差別を助長しているのだ。

『別冊 図書館戦争I』には木島ジンという作家が登場する。彼は反社会的、暴力的な作品ばかりを書いているが、婉曲表現ばかりで違反語をひとつも使っていないため、メディア良化法では取り締まることができない。彼は良化法に対する批判として、意図的にそうした小説を書き、社会に挑戦しているのである。

 木島ジンというのは嫌な奴だと思う。しかし、言っていることは正論だ。違反語さえ使われていなければいいという問題ではない。それは『レインツリーの国』を読めばよく分かる。

レインツリーの国』と木島ジンの作品は正反対だが、同じことを訴えている。前者は違反語を使ってはいる差別的ではなく、後者は違反語を使っていないが差別的である。

 ある表現が差別的かどうかは文脈から判断するしかない。単語だけ取り出しても意味がない。こんな単純なことを理解できない――いや、理解しようとしない人間が大勢いる。

 繰り返す。『図書館戦争』はリアルな話である。銃撃戦こそないものの、僕らはすでに『図書館戦争』の世界で生きているのだ。