ありがとう、そしてさようなら『シンケンジャー』

 戦隊シリーズの脚本が変わってきたのは、やはり90年代からだと思う。

 上原正三高久進、曽田博久、藤井邦夫といった初期シリーズを支えた脚本家が退き、第二世代の脚本家が台頭してきてから、明らかに脚本のカラーや質が変化してきた。その本格的な幕開けとなったのが、井上敏樹がシリーズ構成を務めた、いろんな意味での問題作『鳥人戦隊ジェットマン』(91年)であることは、どなたも異論はないだろう。

 その後も、浦沢義雄の『激走戦隊カーレンジャー』(96年)、小林靖子の『星獣戦隊ギンガマン』(98年)『未来戦隊タイムレンジャー』(00年)、荒川稔久の『爆竜戦隊アバレンジャー』(03年)『特捜戦隊デカレンジャー』(04年)、前川淳の『魔法戦隊マジレンジャー』(05年)、會川昇の『轟轟戦隊ボウケンジャー』(06年)、横手美智子の『獣拳戦隊ゲキレンジャー』(07年)と、それぞれに特徴のある面白い番組が続いた。アクションだけではなく、キャラクターやお話が楽しいのだ。

 80年代までの戦隊が、番組ごとのカラーの違いが明確ではなかったのに対し、ギャグ路線、恐竜、拳法、忍者、魔法、刑事、冒険といったように、その年ごとのコンセプトの違いをはっきり打ち出すようになったのも、90年代からだ。

 また、戦隊ものに限らず、昔の特撮番組の脚本は、「子供向け番組なんかやりたくないけど、お仕事でしかたなく書いている」といった感の漂う、ぞんざいなものが多かった。それに対し、近年の脚本は、本当にこのジャンルを愛してるんだなあと感じさせるものが多い。

 その代表が小林靖子さんだろう。

 08年の『ゴーオンジャー』は、最初の数回でがっかりして見放してしまった(だいたい、武上さんの年はハズレが多いのよ(苦笑))。前年の『ゲキレンジャー』が実に面白くて、最後まで気が抜けなかっただけに、落差が大きかったのだ。

 しかし、09年の新シリーズの構成が小林さんだと聞いて、「こりゃ、ちょっと期待していいかも?」と思った。

シンケンジャー』の第1話を見て、その期待は確信に変わった。

「今年は面白くなる!」

 侍、黒子、筆、馬、矢文、桜吹雪、歌舞伎などなど、徹底して和風テイストを詰めこんだ設定にも感心したが、何といってもキャラクターが美味しすぎる。

 何かもう、「同人誌を作れ」と言わんばかりの!(笑)

 しかも回を重ねるにつれて、じじい萌え、百合百合、美形悪役と、あらゆるサービスが出てくるのである。何かもう、「全方位どこからでも攻めてらっしゃい」と言わんばかりの!(笑)

 もちろん子供向け番組だからそんなことは露骨には言わないんだけど、子供だけじゃなくママさんたち「大きいお友達」にとっても楽しい要素が満載なんである。『ギンガマン』『タイムレンジャー』『龍騎』『電王』と書いてきた小林さんのテクニックの集大成という感がある。

 しかも、決してそうしたキャラクターの魅力にだけ頼ってはいない。個人的シュミに走りながらも、決して本筋を見失わないところがプロである。細部までよく考えられた話なのだ。

 たとえば外道衆は「隙間」から出入りできるけど、三途の川の水が切れると地上で活動できなくなるので、限られた時間しか暴れられないという設定。これは上手い。ヒーローものによくある、「敵キャラがヒーローを追い詰めるけど、なぜかとどめを刺さない」という不条理を、これで説明してしまえるのだ。

 これにより、番組前半でシンケンジャーが外道衆に苦戦→水切れでいったん逃げる外道衆→番組後半で再戦して倒す、という基本フォーマットが成立する。

 その倒し方にしても、毎回、こういう特殊能力を持つ敵にこういう策で対抗する……というコンセプトがはっきりしているのがいい。「なぜか分からないけど倒せてしまった」ということがないのだ。

 だからこそ最後の「力ずくだ!」が生きてくるわけなんだけど。(毎回、力ずくで勝ってたら、あれは言えない)

 そしてクライマックスの44話〜最終話。これがもう「神回」の連続!

 丈瑠が影武者だったと発覚した時には、「ええっ、そんな伏線あったっけ?」と驚いたもんだけど、よくよく思い返してみると――

 ああ、ズボシメシの回の「嘘つき」ってそういう意味か!

 最初の頃、流之介たちが自分を守って傷つくことを丈瑠が嫌がっていたのは、そういう事情があったからか!

 あの回想シーンの父の台詞はそういう意味!?

 ずいぶん前からいろんな伏線張ってたんだなあ。よくぞ外道衆のみならず視聴者まで謀ってくれたわ(笑)。

 その発覚前後の話の流れが、また上手い。

・家臣たちと心を通わせるようになった丈瑠。

  ↓

・しかし、敵である十臓に「(仲間を思いやるようになって)弱くなったな」と言われ、苦悩する。

  ↓

・影武者の任を解かれ、「びっくりするほど何もないな」と落胆。

  ↓

・そこに十臓が現われ、丈瑠に再戦を挑む。守るべきものがなくなった今、逆に全力で戦える丈瑠。

  ↓

・戦いにだけ生きがいを見出す丈瑠。彦馬や仲間たちに「(この一年間は)戦いだけではなかったはず」と説得されるが、耳を貸さない。

  ↓

・最も忠誠心の強い流之介だけは、姫への忠誠と丈瑠への想いの板ばさみになって動けない。その迷いを断ち切ったのがカジキ折神の回に出てきた黒子さん。しかも自分が言われた言葉をそのまま流之介に返す。

  ↓

・駆けつけた流之介。戦いにとりつかれ、外道に落ちる寸前の丈瑠を、水属性の技で炎を断ち割って救い出す。

 これだけのストーリーの流れを考えたというだけで感服もの。いつもいつも小説のプロットを考えている者の目には、この構成はすごく「美しい」。

 僕は「ストーリーのデッサン力」という言葉をよく使う。人体を描く時に、肉の下にある骨格を把握しなければいけないのと同じで、ストーリーというものもちゃんと骨が通っていないといけないのだ。『シンケンジャー』の骨格は美しいのである。

 とどめは、流之介が初めて「殿」ではなく「丈瑠」と呼ぶシーン。これは思わず感涙した。

 あと、十臓がね、いいキャラクターなんだよね。

 彼の妻の話が出てきた時には、かなり不安だった。十臓は純粋に悪を貫いているところがいいんであってり、死ぬ前に改心されたりしたら、ちょっと嫌だなと思っていた。

 だから彼が誘惑を振り切って(つーか、最初から眼中になくて)アクマロをぶった斬った時には、「それでこそ十臓!」と快哉を叫んだものである。

 最後、彼が丈瑠との決闘の末に敗北し、満足して成仏するものだと、僕は予想していた。しかし、そうはならなかった。結局、勝負の決着がつかないまま、無念を抱いて消えていった。

 なぜか? もし十臓が満足して死んでいったら、彼の生き様を肯定することになるからだ。

「生きることは戦いだけではない」というのが、丈瑠たちが最後に到達したテーマである以上、人生のすべてを戦いにかけた十臓の生き方は否定されねばならなかったのだ。

 小林さんの脚本は、このへんの視点もブレていない。いかに悪役がかっこ良くても、否定すべき点は否定しなくてはいけない(特に子供向け番組では)ということを、ちゃんと心得ている。

 あと、姫様ね。いいわ、この人、演技力は別にして(笑)。

 ラスト近くにいきなり出てきてリーダーの座を持ってっちゃうという前代未聞のキャラクター。これで嫌な女だったら、流之介もあんなに悩まなかったはずなんだけど、使命感に燃える一方で人情も理解しているという、とことんいい人なもんだから、かえって苦悩が深まるという構成。これまた上手い。

 ドウコクの封印に失敗したのも、彼女自身のミスや力不足ではないという設定になっていて、視聴者に非難されないように気を遣って構成しているのがよく分かる。

 最終話直前、僕は「丈瑠が姫様と結婚して婿養子になっちゃえばいいんじゃないの」と冗談で思っていたのだが……まさか、それを上回る裏技があったとは!(笑) テレビの前でひっくり返った。すごいよ、小林さん! 僕らの予想をいい意味で裏切ってくれるよ!

 あと、脚本とは関係ないんだけど、真シンケンレッドのアクションには感心した。明らかに筋力で丈瑠より劣るもんで、動きは最小限。烈火大斬刀を振り回す時に、足で蹴ってはずみをつけているのだ。現場のアイデアなんだろうか。ちょっとした工夫だけど、うまいよね。

 子供向け番組とはいえ、最高のものを作ろうというスタッフの熱意が感じられて、最後まで心地好い番組だった。これまでの戦隊シリーズの中で最高傑作であると断言する。

 1年間楽しませてくれてありがとう、『シンケンジャー』。

 ちなみに後番組『天装戦隊ゴセイジャー』のシリーズ構成は『ゲキレン』の横手美智子さんだそうで、これまた期待できそうだ。