9月15日(祝)敬老の日、日本SF界の偉い人を訪問

 敬老の日柴野拓美さんの家を訪問し、インタビューした。

 きっかけは、コミケ終了の打ち上げの席。と学会のIPPANくんが、「会長、誰か対談してみたい方いませんか?」と訊ねてきたのである。僕は即座に「柴野拓美さん」と答えた。

 意外だったのが、けっこうマニアであるはずのIPPANくんが、柴野さんを知らなかったこと。

「ええー、小隅黎だよ!? 『ガッチャマン』や『テッカマン』で毎回、OPに〈SF考証 小隅黎〉って出てたでしょ? 『宇宙エース』の頃からタツノコ作品と関わってたんだよ?

 日本初のUFO団体『日本空飛ぶ円盤研究会』の主要メンバーだったんだよ? 高梨純一さんも荒井欣一さんも亡くなった今、日本のUFO界の創世記を知る数少ない証人なんだよ?

 それにもちろん、日本初のSF同人誌『宇宙塵』を主催してた人だよ。星新一小松左京光瀬龍豊田有恒平井和正山野浩一眉村卓田中光二山田正紀梶尾真治といった日本SF作家の多くが『宇宙塵』からデビューしてるんだよ!

 つまり柴野さんという人は、SF、アニメ、UFOの3つの分野でものすごく重要な人なんだよ! 知ってなきゃおかしいでしょうか!」

 と、熱弁をふるう。

 するとIPPANくんも興味を持った。相談の結果、柴野さんの業績を紹介する同人誌を創ることになった。この人のやってきたことを今の世代のマニアたちにぜひ伝えなくてはならないと思ったのである。

 柴野さんに連絡したところ、快諾をいただき、インタビューが実現した。

 さらに補足しておこう。

 柴野さんの肩書きは「SF作家」だが、作品数はそんなに多くない。むしろ作家活動以外の部分で、SF界、オタク界にとてつもない影響を与えているのだ。

 上述の同人誌、『宇宙塵』。これ、1957年から1972年まで、ほぼ毎月発行されていたのである。(現在でもペースは落ちたが発行は続いている)

 毎月ですよ、毎月!

 今、同人誌をやってる人たちは、このペースを聞いただけで「信じられない!」と思うに違いない。当時の人たちの情熱のすごさ!

 その掲載作品もレベルが高かった。星新一「ボッコちゃん」「おーい、でてこい」、小松左京「地には平和を」、今日泊亜蘭『刈得ざる種(光の塔)』、広瀬正『マイナス0(マイナス・ゼロ)』、筒井康隆『幻想の未来』、石原藤夫「高速道路(ハイウェイ惑星)」、豊田有恒『地球の汚名』、梶尾真治「美亜へ贈る真珠」「地球はプレインヨーグルト」、田中光二「幻覚の地平線」、山田正紀「襲撃のメロディ」、梅原克哉『二重ラセンの悪魔』、遠藤慎一(藤崎慎吾)「レフト・アローン」……これらの作品は、最初は『宇宙塵』に掲載され、そこから商業誌に転載されたり商業出版されたりしたのである。

 『宇宙塵』がなければ今の日本SF界もなかったと言える。

 日本SF大会というものがはじまったのも、元は柴野さんの提案がきっかけだという。

 その日本SF大会を模倣したのが「日本漫画大会」で、これがコミックマーケットの前身とされている。つまり柴野さんがいなければコミケというものも生まれなかったかもしれない。

 あと、今では当たり前になったコスプレというものも、起源はSF大会のマスカレード(コスチュームショー)だろう。これも柴野さんがアメリSF大会から持ち帰ったノウハウのひとつとされている。

 他にも柴野さんには、翻訳家としての著作もたくさんある。僕も大好きなJ・P・ホーガンの『断絶への航海』『未来からのホットライン』や、2002年から改訳版が出たE・E・スミスの『レンズマン』シリーズなんかも「小隅黎」名義の訳である。ノンフィクションではジョン・マックフィー『原爆は誰でも作れる』が僕の愛読書。

 さあ、この人がどれほど重要なポジションにいたか、ご理解いただけただろうか。

 さて、今年82歳の柴野さん。近年、病気で目が悪くなって字が読めなくなっている。僕の小説も読んでいないそうで、しきりに恐縮しておられた。

 耳もちょっと遠いのだが、補聴器のおかげで、ほとんど支障なく会話できた。

 言葉はとてもしっかりしておられた。IPPANくんが「これならテープ起こしがしやすい」と感心していたほど。ちょくちょく、固有名詞が出てこなかったり、SF大会をやった年が思い出せなかったりという程度(僕だって、何年に何CONなんて覚えてません)。

 いずれ内容は同人誌にまとめる予定なんで詳しくは書かないけど、印象に残った話をいくつか。

 柴野さんは、タツノコプロでSF考証を担当していた。宇宙エースの必殺技・プラチナ光線というのを考えたのも柴野さん。

 また、『マッハGOGOGO』のマッハ号のA〜Gのボタンが何の略なのかも、柴野さんと広瀬正氏がいっしょに考えたのだそうだ。道理で。「ギズモ」なんて名前は当時の日本人のセンスじゃなかなか出てこないわ。

 マンガ原作者を探していた『少年マガジン』編集者に、平井和正氏を紹介したのも柴野さん。つまり柴野さんがいなかったら『エイトマン』も生まれなかったのだ。

 その『エイトマン』誕生前のエピソード。ある時、柴野さんの職場に平井氏が困って電話で泣きついてきたという。

「柴野さん、助けてください。このままじゃあのマンガ、『東京鉄仮面』というタイトルに決まってしまいそうなんです!」

『東京鉄仮面』!(笑) あかんわ、それは。絶対あかんわ。

 幸い、『8マン』というタイトルになった(命名者は加納一朗氏らしい)わけだが、『東京鉄仮面』じゃ絶対にヒットしなかっただろうなあ。