鼻血効果

 1954年4月14日から15日にかけて、アメリカのシアトルの警察署が、「自動車がたった今傷つけられた」という市民からの電話による通報を200件以上も受け取った。

 合計で3000台もの車が傷つけられていた。傷はもっぱらフロントガラスに集中しており、ぎざぎざの小さな傷が無数に付いていた。

 シアトルの市長は、この被害は警察の理解を超えていると考え、ワシントンの政府長官に訴え、長官はアイゼンハワー大統領に報告した。事件は地方紙でも報じられた。

 人々の間に流れていたうわさによれば、この傷は3月1日にビキニ諸島で行なわれた核実験の影響だとされていた。核爆発で空中に巻き上げられた放射能を帯びた土砂やサンゴの破片が降ってきて、車を傷つけているというのだ。多くの市民が車を傷つけられるのを恐れ、フロントガラスを新聞紙など覆ったり、車をガレージの中に入れたままにした。

 ワシントン大学環境調査研究所が調査に乗り出し、6月10日にその結果を発表した。問題の傷の数は、自動車の使用年数に正確に比例しており、古い車ほど傷が多かった。すなわち、つい最近になって付いたものではなく、何年も前から少しずつ付いていたのだ。専門家の報告によれば、アスファルトの細かい破片が巻き上げられ、走っている車にぶつかってできたものだという。

 多くの車が何年もの間、フロントガラスにたくさんの傷をつけたまま走り回っていた。その年の3月まで、誰もそれを気にしていなかった。

 ところがビキニの核実験の直後、誰かが自分の車のフロントガラスに傷を発見し、それを隣人に伝えた。この発見はたちまち口コミで広まり、多くの市民が自分の車のフロントガラスを調べるようになり、そこに傷を発見した。そして、それが最近になって核実験でできた傷だと思いこんで、パニックが起きたのだ。

――ジャン=ノエル・カプフェレ『うわさ もっとも古いメディア』(法政大学出版局)より要約

 こんな話を思い出したのは、3.11の後、日本で似たような例が頻発しているからである。

 たとえば、関東地方で子供が鼻血を出すようになったのは放射線被曝のせいだというデマが流れている。

 子供って鼻血を出すもんだよ!

 僕なんか子供の頃、何回鼻血出したか分かんないよ。学校でも授業中に鼻血出す奴、よくいたし。珍しくもない。

 もちろん、3.11以降に鼻血を出す子供が増えたという統計もない。

 確かに何シーベルトという単位の大量被曝なら、下血や下痢という症状が出るが、低線量被曝で鼻血が出るなんてありえない。たとえば5マイクロシーベルト/時ぐらいの線量の地域でさえ、100日間での累積線量は12ミリシーベルトぐらいにしかならないわけで、まだ人体に影響なんか出るわけがないのだ。仮に影響が出るとしたら、何年も先だ。

 放射線科医の方も明確に否定しておられる。バセドウ氏病の治療のために大量のヨウ素131を投与することはあるが、患者に鼻血が出るなんて症状は見られないという。

http://togetter.com/li/149186

 こちらは血液内科医の方による解説。やはり低線量被曝と鼻血の関連を明確に否定。

http://togetter.com/li/150517

 車のフロントガラスの傷と同じで、これまで子供が鼻血を出してもぜんぜん気にしていなかったお母さん方が、原発事故の後、「放射能のせいでは!?」と心配するようになったのだろう。

 6月24日にはアラスカでマグニチュード7.2という大きな地震があった。

 この地震の記事について書かれたmixi日記をざっと見たのだが、騒ぎ立てている人が何人もいてあきれた。「世界規模での地殻変動が起こっていることは明白」とか「地殻変動激しいな」とか「ニュージーランド地震も含めると、太平洋全体で揺れているようです」とか……。

 マグニチュード7以上の地震は全世界で毎年平均18回起きてます。

気象庁地震について

http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/faq/faq7.html

 もちろんこれは極秘情報なんかではない。世界のどこかで大地震が起きれば新聞でも報じられる。僕らはそれをしょっちゅう目にしているはずなのだ。

 試しに理科年表に載っている2001〜2010年の間に世界で起きた大地震の中から、死者が出たものを抜き出してみよう。いずれも日本の新聞やテレビで報じられたはずである。あなたはいくつ覚えておられるだろうか?

2001.1.13 エルサルバドル M7.8 死者852人

2001.1.26 インド M8.0 死者20023人

2001.6.23 ペルー M8.2 死者132人

2002.3.25 アフガニスタン M6.2 死者1000人

2003.5.21 アルジェリア M6.9 死者2266人

2003.12.26 イラン M6.8 死者43200人

2004.12.26 インドネシア M8.8 死者283100人以上

2005.3.28 インドネシア M8.4 死者1303人

2005.10.8 パキスタン M7.7 死者86000人以上

2006.5.26 インドネシア M6.2 死者5749人

2007.4.1 ソロモン諸島 M7.9 死者52人

2007.8.15 ペルー M7.9 死者514人以上

2007.9.12 インドネシア M8.5 死者25人

2008.5.12 中国 M8.1 死者69227人

2009.9.29 サモア諸島 M8.1 死者192人以上

2009.9.30 インドネシア M7.1 死者1117人以上

2010.1.12 ハイチ M7.3 死者222570人

2010.2.27 チリ M8.5 死者521人以上

2010.4.13 中国 M7.0 死者2220人以上

 恥ずかしながら、僕は5つしか覚えていなかった。我ながら情けない記憶力である。

 しかも、これは死者が出た地震だけである。死者が出なかった大地震はこの何十倍もある。大地震の多くは人口過疎地帯で起きるので(地球の面積の大半は海洋と砂漠と草原と山岳地帯とジャングルなのだ)、被害はほとんどなく、記事の扱いも小さい。だからこれまで、みんな注目してこなかっただけだ。

 東日本大震災が起きたことで、地球の他の地域で起きる大地震のニュースも注目されるようになり、「地震が増えている」と錯覚する人が出てきているのだ。

 地震の前兆現象を見たという報告もいろいろある。

 僕がいちばん笑ったのは、「地震の前日の夕焼けが赤かった」というものである。

 夕焼けは赤いよ!

 他にも地震の前兆現象としては、「地震雲」とか「赤い月」とかもよく言われている。

ニセ科学を10倍楽しむ本』や『謎解き超常現象』でも書いたが、地震雲と呼ばれるものの多くは、単なる飛行機雲である。普段から空を見ていれば、何日かに一度かは必ず目にできるものだ。

 ところが、普段、あまり空を見ない人が、たまたま飛行機雲を見てしまうと、「異常な雲だ!」と思ってしまうらしい。

 赤い月もそう。僕は夕方に仕事場から家に帰るので、毎月一度ぐらい、東から上ってくる満月を目にする。そもそも地平線近くの満月は(夕日が赤く見えるのと同じ原理で)赤っぽく見えるものなのだが、たまに血のような赤い色に染まることもある。中国から流れてくる黄砂などの、大気中の塵が増えることによるものらしい。

 これまで10回以上は真っ赤な月を見ているが、直後に大きな地震が起きたことなど一度もない。

 他にも、阪神淡路大震災の時には、やはり前兆現象として、「カラスが群れをなして飛んでいるのを見た」という報告もある。

 カラスって毎日、夕方になったら群れをなして山に帰っていくよ!

 僕はそんな光景、もう何十回も見てるけど、これも普段、カラスになんか興味のない人がたまたま目撃したら、不気味に見えるのかもしれない。

 こういう、「普段からよくあることなのに、無知や観察力不足のために、最近になって急増したと錯覚する現象」を総称して、「鼻血効果」と名づけてはどうかと思うのである。