フィクションにおける嘘はどこまで許される?(後編)

 ただし、フィクションならどんなデタラメでも許されるわけではない。

 慎重にならなくてはいけないのは、扱う対象が実在の人物や団体である場合だ。

「1人でも不快に思う人がいるなら、その言葉を使うのを控えるべきだと思うんです」というのは明らかに非現実的な極論だけど、なるべくなら誰も傷つけない方がいいに決まっている。

 僕の体験で言うと、『MM9』を書きはじめる前、「この話では絶対に自衛隊を悪者にしない」という誓いを自分に立てた。

 これは政治的信条とかとは何の関係もない。『MM9』の世界では怪獣は自然災害であるという設定なのだから、怪獣と戦う自衛隊を悪者にすることは、げんに自然災害の現場で救助活動をしている自衛隊の方々に対して失礼になると考えたのだ。

 これは『MM9』だからであって、他の物語だったら、ストーリーの都合上、自衛隊を悪役にする場合もあると思う。日本政府とかアメリカ政府とかCIAとかの陰謀も、必然性があるのなら、フィクションの中で描いてもいいだろう。

 また、作品を通して現実の何かを批判したい場合には、もちろん批判の対象を不快にすることをためらうべきじゃない。

 僕の作品の場合だと、たとえば「アリスへの決別」を読んだら、表現規制賛成派の人は不快に思うはずである。でも、彼らを批判するために書いた話なんだから、当然のことだ。

 逆に言えば、必然性がないのに実在する誰かを悪者にしちゃだめだ。

美味しんぼ』がまずかったのは、フィクションではなく「福島の真実」と主張していたこと。そして、福島に関する悪評を立てて、げんに福島に住んでいる人たちを傷つける内容であったことだ。

 反原発を主張したり、政府や東電を批判するのはかまわない。言論の自由だ。しかし、福島の一般の人たちは被害者ではないか。震災の苦しみから立ち直ろうとしている無辜の市民を妨害するようなことをやっちゃだめだろ。

美味しんぼ』とコンセプトが似ているマンガに、『MMR』がある。かたや新聞社の記者、かたやマンガ雑誌の編集者が主人公。実在の人物を作中に登場させてリアリティを出し、非科学的な理論を展開して読者を不安する手法も似ている。(スタートしたのは『美味しんぼ』の方が早いんだけど)

 しかし、『美味しんぼ』以上にデタラメな内容の『MMR』に対し、『美味しんぼ』のような激しいバッシングがあったという話は耳にしない。

 その理由のひとつは、前述のように、リアルっぽい作品ほど嘘を書いた場合の反発が大きいということ。『MMR』ぐらい荒唐無稽で間違いだらけだと、逆に「間違ってる」とツッコむのも空しくなる。

 もうひとつ、いくら悪く書いても、三百人委員会やレジデント・オブ・サンは抗議してこないということ(笑)。そういう組織や人物が実在しないと分かっているから、スタッフも安心して大嘘がつけるんだろう。

 繰り返すが、なるべくなら誰も傷つけない方がいいのだ。

 作家というのは常に、「これは誰か無辜の人を傷つけないだろうか」と悩みながら書くべきだと思う。

 それにからんで、SF界で有名な例に、「『豹頭の仮面』事件」がある。

 1979年、栗本薫グイン・サーガ〉シリーズの第1巻、『豹頭の仮面』が出版された。その中に「癩(らい)伯爵」という悪役が出てきた。癩病に冒され、全身が醜いできものに覆われ、膿を垂れ流し、悪臭を放っているという、すさまじいキャラクターだ。そのおぞましさ、嫌らしさ、邪悪さが、これでもかというぐらいねちっこく描かれていた。(もちろん、本物の癩病ハンセン病は、そんな病気ではない)

 僕はリアルタイムで読みながら「これはまずいんじゃないか?」と心配したのだが、案の定、ハンセン病患者の団体から抗議を受けた。現在、出回っている『豹頭の仮面』は書き直されたバージョンで、癩伯爵は「黒伯爵」という名に変わっている。

グイン・サーガ〉の世界では、この世界にあるものと名前は同じでも、実際は違っているという設定である。たとえば「ウマ」という生物は、我々の世界の馬と同じものではなく、あくまで異世界の生物なのだそうだ。

 だから作者はおそらく、癩病も我々の世界の癩病ではなく、ファンタジー世界の架空の病気という認識で書いたのだろう。

 しかし、架空の病気なら、わざわざ「癩病」という現実に存在する病気の名をつける必然性はまったくなかったんじゃないだろうか? 架空世界の架空の病気に架空の名前をつける手間なんて、ごくわずかだ。

 しかもその患者をおぞましい悪役として描いたのだから、これはもうどう考えてもアウトだ。

 SFやファンタジーのような架空世界を描く場合でも、配慮は必要だ。

 故・栗本薫中島梓)氏に関しては、もうひとつ、僕がいまだにどうしても許せないことがある。2002年にブログでやらかした、北朝鮮拉致被害者に対する問題発言だ。

>44歳で生存が認められた蓮池薫さん、大学が「復学を認めた」そうですけれども、いま日本に帰って44歳で大学生に戻っても、もう、蓮池さんには「あたりまえの日本の平凡な大学生」としての青春は戻ってこない、それは不当に奪われたのですが、そのかわりに蓮池さんは「拉致された人」としてのたぐいまれな悲劇的な運命を20年以上も生きてくることができたわけで、 それは「平凡に大学を卒業して平凡に就職して平凡なサラリーマン」になることにくらべてそんなに悲劇的なことでしょうか。

 これを読んだ瞬間、同じ作家として愕然となった。

 この人は現実に存在する拉致被害者を、小説の登場人物のように考えている!

 確かに小説の中であれば、「たぐいまれな悲劇的な運命」に翻弄されるキャラクターの人生は、「平凡なサラリーマン」のそれより魅力的だ。でも、拉致被害者の体験は小説ではない。現実なのだ。それが分かっていない。

 現実の拉致被害者の方の心境を想像してみれば、「そんなに悲劇的なことでしょうか」なんて残酷な言葉は出てこないはずだ。

『豹頭の仮面』事件も結局のところ、現実に存在するハンセン病患者の方に対する想像力の欠如が原因だったんじゃないかと思うのである。

 今、作家や編集者は、どこも差別問題に過敏である。「下手なことを書いて人権団体から抗議を受けないか」とびくびくしている。

 それは間違っている、と僕は思う。問題は誰かを傷つけるかどうかであって、抗議はその結果にすぎない。抗議さえ受けなけりゃいいってもんではない。

 注意すべきなのは「抗議を受けるかどうか」じゃなくて「人を傷つけるかどうか」だ。そこを絶対に間違えないように。