弱者が常に正しいわけじゃない
前の記事からの続き。
なぜ僕がこの映画を純粋にアニメ映画として観てほしいかというと、2013年、原作の最初の読み切り版が『別冊少年マガジン』に載った時、Toggeterでこういう意見を目にしたからである。
求めていたのは和解ではなく拒絶〜普通学校で虐められた聴覚障害者が読んだ聲の形〜
僕もあの読み切り版の結末については不満があった。展開が唐突すぎて、安直に感じられたからだ。(そのへんは連載版や、今回の映画版でかなり改善されている)
しかし、このマンガに不満を持つ人たちの意見を読んで、愕然となった。
>いっそ転校したあと、クラス全員がバス事故で死ぬくらいでないと納得行かない部分はあるよねw
>@kurage313 @ChromeTzahal もしくは少女がイジメのエスカレートで殺されるも、隠蔽されてしまう。残された両親はある男に依頼する。ってノリでクラス全員射殺されて「いじめ問題は日本において〜」ってナレーションが流れてだな
>結局のところ、ひどい健常者と良い子な障害者という構図はお腹いっぱいなんですよ!ギャングスタみたいに惨殺するろうとかが俺はもっと見たいんです!です!
>唐突に宇宙からの怪音波が地球上に流れて、クラスメイト全員憤死してヒロインだけが生き残り、補聴器捨てられたおかげだ、主人公君ありがとう…ってラストがよかたよ
>おい、早くコラでコブラが現れていじめっ子やクソの担任をサイコガンでぶちのめす奴はよ
いやいやいや、そりゃだめだろ!
ギャグ作品ならともかく、あのリアルな世界観の話に、そんな現実離れした結末つけたら、話が台無しになっちゃうだろ!
あの結末に不満があるのは分かる。でも、出てきた代案がどれも原作以上に現実離れしたものばかりってどういうこと? それこそまさに現実逃避じゃないの?
僕はその時、思ったんである。「ああ、素人は創作という行為をこんなに安直に考えているのか」と。
ストーリーのつじつまとか世界観とかテーマ性とかはどうでもよくて、とりあえず自分の個人的なうさが晴らせたら満足なのか。
でも、そんなのは創作じゃないんだよ。
あと、なぜか硝子を無抵抗で心優しいだけの天使のようなヒロインだと思いこんでいる人が多いのが不思議。
硝子が将也に飛びかかって、取っ組み合いのすごい喧嘩をするシーンが、記憶から飛んでるんだろうか? 僕はあのシーンがいちばん印象に残ったんだけど。
言葉が不自由なせいで、うまく自分の意思を表現できなかった硝子だけど、実は内に激情を秘めていたことが分かる──まさに「障碍者も普通の人間だ」ということが示された場面だったから。
今回の映画でも、こんな意見を目にした。
『聲の形』はいじめっこ向け感動ポルノなのか
http://togetter.com/li/1027520
>「聲の形」観た。これは悪質な加害者救済物語。周囲にさまざまなクズを配置することによって相対的に主人公がマシにみえるようにしてるし、主人公を筆頭にさまざまなクズひとりひとりが最終的に救われる構図だし、聴覚障碍者の子はそのためだけに存在している。物語の道具であり健常者の道具でしかない
同様のことを書いている人は多い。いじめの加害者である主人公が救われるのが許せない、というのだ。
……あのですね。
僕も子供時代にいじめられてた一人だから言わせてもらうけど、そういう言い方はものすごく危険だよ?
もちろん、自分をいじめた人間を「許さない」と思う心理は理解できる。僕もそうだから。
でも、この場合は違う。主人公の将也は確かに最初は硝子をいじめていた。でも、その後でいじめられる側に転落した。そして自分のやったことを反省する一方、自殺を考えるところまで追い詰められてしまった。
つまり、この物語を否定する人たちは、いじめに遭って自殺寸前まで追い詰められた少年を、「許してはいけない」「救われてはいけない」と主張しているわけである。
それ、まさに「いじめ」じゃないの?
他にもこの人、こんなことも書いている。
>あとこれ「君の名は。」もそうだったんだけど、ヒロインが内股。いらっとする。べつに内股の女にいらっとするってわけじゃない。ヒロインを内股にする男の作者の女性観に超絶いらっとするんだよねー。
『聲の形』は原作者も脚本家も監督も女性です!
内股の女性の絵を見ただけで、「作者は男性」と思ってしまうのって、それこそ性差別意識じゃないのか?
僕は前にこういう文章を書いた。
いじめ問題:やっぱりこんな事件が起きていた
http://hirorin.otaden.jp/e244973.html
世の中にはこんなにも異常者が多い、という話
http://hirorin.otaden.jp/e247570.html
繰り返すが、僕はいじめ被害者である。
だからこそ言うが、いじめ被害者たちの主張が常に正しいわけじゃない。
理想を言えば、いじめなんてものが根絶されることがいちばんいい。いきなり根絶は無理にしても、少しでも被害者を減らすべく努力するべきなのだ。
しかし、世の中には、いじめ加害者や事件の関係者を殺していいとか、事件と無関係な人に冤罪を着せ、いくら迷惑かけてもかまわないとか思っている人間がいる。被害を少なくするどころか、かえって被害を拡大しようと願っている。
僕はそんな考えを絶対に容認しない。
はっきり言うが、そんな思想は「悪」だ。 自分がいじめられていたからって、悪に加担してはいけない。
ちなみに、『僕の光輝く世界』の第1話は、2012年のこの一件をヒントにしている。
主人公をいじめ被害者と設定したうえで、いじめを憎む世間の人々の歪んだ正義が暴走し、悲劇を生む様を描いた。
そんなことが起きてほしくないから。