「インディアナポリス」問題:「差別語」はなぜ生まれたか

 そもそもなぜ「差別語規制」「禁句集」なんてものが生まれたのか。その歴史的経緯を知らない人が多いようなので、解説しておく。

 1970年代まで、マスコミには言葉の規制なんてなかった。

 僕がよく例に挙げるのは、『ウルトラマン』の第2話、これからバルタン星人との交渉に赴こうとするイデ隊員が言う。

「そりゃあ僕は宇宙語に関してはかなり気ちがいさ。でも、本当の宇宙人と喋った経験はないからね」

 この場合の「気ちがい」という言葉には侮蔑的ニュアンスはない。自分は宇宙語を熱心に勉強しているという肯定的なニュアンスで発せられている。

 僕が子供の頃、日本人はみんな「気ちがい」という言葉をごく普通に使っていた。差別的な意味なんかなかった。それどころか、イデ隊員のように、何かのジャンルのエキスパートが誇りをもって、自らを「気ちがい」と呼ぶこともあった。

 もちろん精神障害者を「気ちがい」と呼んで侮蔑する奴はいたが、それは侮蔑の感情をこめて使用していたからいけないのである。

 だいたい、よく見てほしい。「精神障害」とか「精神異常」という言葉に比べて、「気ちがい」って悪い言葉だろうか? 一方が「障害」「異常」と決めつけているのに対し、「ちがい」にすぎないと言っているのだ。

「障害」「異常」と「ちがい」――どっちがより穏やかな表現だろうか?

 あるいは「朝鮮人」という言葉を考えてみれば分かる。もちろん「朝鮮人」という言葉自体に差別的な意味なんかない。でも、差別主義者が侮蔑の感情をこめて「この朝鮮人め!」と言ったら差別になる。

「シナ」という言葉もそう。この言葉を使いたがる人間は必ず、「シナという言葉に差別的意味はない」と主張する。それは確かにそうなんだけど、問題は「中国」という言葉があるのにわざわざそれを使わず、「シナ、シナ」と連呼する奴は、たいてい中国嫌いだということ(笑)。つまり「シナ」が差別的なんじゃなく、それを差別的文脈で使うのが問題なんである。

 どんな言葉もそうなのだ。辞書に載っている定義だけではなく、その言葉が発せられた状況が重要なのである。

「バカ」という言葉も、恋人に対して優しく発すれば、愛の言葉になる。

「君は頭がいいねえ」という言葉も、皮肉っぽく発すれば侮蔑になる。

 単語単位ではなく、その前後を見て、どんなニュアンスで発せられたかを確認しないと、差別発言かどうかは判断できない――当たり前だけど。

 1960年代から70年代にかけて、テレビや出版物の中での差別発言に対して、人権団体が強硬に抗議するという例が何度もあった。

 ほんの一例を挙げるなら、1973年7月19日、フジテレビの『三時のあなた』にゲストとして出演した玉置宏氏が、「お子様がもし歌手になりたいといえば、どうしますか?」と質問され、こう答えた。

「大反対します。この世界には入れたくないですねえ」

「どうしてですか?」

「そりゃ、だってもっと、素晴らしい世界がありますよ。特殊部落ですよ。芸能界ってのは」

 この「特殊部落ですよ」という発言のせいで、玉置氏は部落解放同盟の糾弾を受けた。

 注意していただきたいのは、玉置氏が糾弾されたのは「特殊部落」という単語を使ったからではないということ。「素晴らしい世界」の反対語として「特殊部落」という比喩を用い、「入れたくない」と言ったからである。つまり単語の使用に対してではなく、それが差別的比喩として使用されたことに、解放同盟は抗議したのである。

 こうした例が相次いだことから、マスコミ各社は対策を余儀なくされた。

 しかし、ここで大きな間違いを犯した。

「差別発言をやめる」のではなく、「“差別語”を使わない」という選択をしたのだ。

 この場合の“差別語”とは、この時にマスコミ各社が作った禁止語リストに載っている言葉である。つまり「気ちがい」「部落」はもともと“差別語”ではなく、マスコミによってNGワードに指定されたことによって“差別語”になったのである。

 先にも述べたように、「“差別語”を使う」=「差別発言」ではない。「部落」とか「気ちがい」という言葉を使っていても差別ではない発言はいくらでもある。

 反対に、リストにある言葉をまったく使わなくても、その気になれば差別発言なんかいくらでもできる。

 有川浩『別冊 図書館戦争?』(メディアワークス)に、木島ジンという作家が出てくる。こいつは過激なバイオレンス小説を書いていて、青少年にも影響を与えているのだが、メディア良化委員会はこいつを取り締まれない。なぜなら、メディア良化委員会の定めた「違反語」を一つも使っていないからである。

>このひまわり学級が!

>自営巡回ゴミ漁りはそれらしくゴミ箱で今日のメシでも食ってろ!

>識字率は九十九%以上の日本で貴重な残り〇・数%に出会うとは思ってもみなかった。

 木島ジンはこうした反社会的・差別的な小説を、メディア良化委員会への挑戦として書き続けている。すごく嫌な奴だと思うんだけど、言ってること自体は正論なんで、余計に苛立つ。

 しかし、「このひまわり学級が!」には恐れ入った。確かに「ひまわり学級」はNGワードに指定できないもんなあ。

 木島ジンの場合は自覚的にやってるわけだけど、それを無自覚にやってる奴も多い。

 ちょっと前、ネットで、差別発言を連発しているくせに「差別発言なんかしていない」とうそぶいている奴を見たことがある。「まるですぐウッキーってなるどっかの国の人みたいだ」という表現をやたら連発するんだけど、具体的に国名を書いていないから差別じゃないと言い張るのだ。

 ああ、よくいるよなあ。「キ××イ」とか伏字にさえすれば差別発言ではないと思いこんでる奴とか(笑)。

 ふざけんな。

 これはマスコミの「“差別語”狩り」が生み出した弊害のひとつと言えよう。NGワードさえ使わなければ、あるいは伏字にしたり「トーシツ」とかいう隠語を使えば差別にならないと思いこんでいる奴がいかに多いか。

「“差別語”を使う」=「差別発言」ではないということを、もう一度みんな、頭に叩きこんでほしい。それが差別発言かどうかは、単語単位じゃなく、文脈によって判断しなくてはならないということを。

「禁止語」「言い換え集」が生み出したもうひとつの重大な弊害は、それがすでに問題となった言葉だけじゃなく、まだ問題になってない言葉、どこからも抗議が来ていない言葉まで先回りして禁止してしまったということだ。

 もう一度言う。「盲船」や「片腕」にいちいち抗議する人なんてどこにいるの?

 いないよね?

 しかし、「禁止語」に加えられたことで、事情を知らない若い編集者の間に、「○○という言葉を使ったら100%抗議が来る」という迷信が生まれてしまっているのである。

 そう、これはまさに現代の迷信。「○○に触れたら祟りがある」と思いこんでいるのだ。

 そういう考え方こそ差別なんだけどね。