そろそろ『シン・ゴジラ』の感想を書く

 もうかなりの人が観ただろうから、ネタバレを恐れずに『シン・ゴジラ』の感想を書いてもいいかと思う。

 もっとも、主なところはすでに多くの人が指摘しているのだが……。

 まず、過去作品へのオマージュ。

ゴジラ』(84)をはじめ、『日本の一番長い日』や『エヴァンゲリオン』、『ナウシカ』の巨神兵などとの類似については、すでに多くの人が語っているけど、意外に『ゴジラ対ヘドラ』の名を挙げる人が少ないように思った。

 だって、第一形態、第二形態、第三形態……と姿を変えて上陸してくるって、明らかにヘドラがヒントでしょ?

 だから、ゴジラがさらに進化して飛行能力を有するようになるかも……という説明で、戦慄したんである。「今度のゴジラ、飛ぶの!?」と。

 だって、蒲田くんからの劇的な変態を見せられたら、もう一段階の変態ぐらいはアリだと思っちゃうよ。まあ、大半の観客はそこまで行くとは思ってなかっただろうけど、『ゴジラ対ヘドラ』を知ってる人間にとっては、ゴジラが飛ぶというのは、冗談抜きで、十分にありえることに思えたのだ。特撮ファンだけに通じるミスディレクションかも。

 まあ、さすがに空を飛ばれたら、もう手の打ちようが何もなくなっちゃうからね。

 あと、攻撃を受けるたびにそれに反応して強くなる怪獣というと、『ウルトラマン』のザラガスが有名だけど、僕はむしろ『ウルトラマンマックス』のイフを連想した。あの「何をやっても無駄」「世界はもう終わりかもしれない」という絶望感は、『シン・ゴジラ』に通じるものがあると思う。

 僕が感心したのは、これまでの怪獣映画のどれよりも、自衛隊の兵器が正しく運用されていたこと。

 僕も『MM9-invasion-』を書いた時に、東京のど真ん中にいきなり宇宙怪獣が出現したら、自衛隊はどう対応するかを考えた。まず戦車は出せなかった。あの短時間で地上部隊は展開できないから。だから航空戦力中心。

 この映画でも、最初にゴジラに立ち向かうのはアパッチ。30ミリチェーンガンとかヘルファイア対戦車ミサイルとか70ミリロケット弾だとかを撃ちまくる。

 これまでの怪獣映画って、戦車や自衛艦が怪獣に近づきすぎてやられるシーンがよくあって、「そんなに近づいちゃだめだろ」っていつもツッコんでた。この映画ではゴジラの尻尾に叩き落とされないよう(この時点ではまだ、ビームを吐くことは分かっていない)、ヘリは十分に距離を置いて攻撃していて、「ああ、そうそう、これが正しいんだよね」とうなずいてた。

 個人的にすごく嬉しかったのは、二度目の上陸の時に登場したMLRS(多連装ロケットシステム)! 『MM9-invasion-』でも怪獣にとどめを刺すために出したけど、たぶん今の陸自の兵器の中で最強。怪獣の動きが鈍ったところで、遠距離からM31を撃ちこむというのは、まったく正しい運用だ。

 まあ、それでも倒せないのがゴジラなんだけど。

 もうひとつ、僕がこれまでの怪獣映画で、ずっと不満に感じてた点がある。

 それは人間ドラマの部分が、怪獣の大暴れするシーン(以下、便宜上、「怪獣ドラマ」と呼称する)と関係ないことが多いということ。

『地球最大の決戦』のサルノ王女暗殺計画とか。

『宇宙大怪獣ドゴラ』の宝石強盗団とか。

 それ怪獣の話と関係ないだろ! というストーリーがよくあったわけですよ。

ガメラ対バルゴン』のニューギニアのくだりとかも、無意味に長いよね。

 怪獣ものじゃないけど、『日本沈没』(2006)の、これから死を覚悟の任務に向かおうとする草彅剛と柴咲コウのラブシーンも、むちゃくちゃ長かった。もう観てていらいらして、「お前、さっさと死んでこい!」と言いたくなるぐらい(笑)。

 だって『日本沈没』で観客が見たいのはスペクタクルでしょ? ラブシーンが見たいなら他の映画でもいくらでもあるじゃない。なんで『日本沈没』でそんなところに尺取らなくちゃいけないの。自分たちが何の映画を作ってるのか分かってないの?

 しかも日本の映画だからこれぐらいで済んでるんであって、海外の昔の怪獣映画はもっとひどい。『原始怪獣ドラゴドン』なんて、尺の大半が単なる西部劇だ(笑)。

 最初から最後までずっと怪獣を暴れさせ続けるのは、予算がかかりすぎるし、観客もダレる。だから、「人間ドラマ」で尺を埋める。そこまではいい

 でも、その埋め方がまずいと、怪獣ドラマと人間ドラマが乖離してしまう。

 とは言っても、怪獣が現われたら普通、一般人は逃げちゃうからね。「怪獣ドラマ」と「人間ドラマ」は両立させるのが難しい。

クローバーフィールド』や『グエムル』では、怪獣がいる場所に愛する人が取り残されていて、それを助けるために一般人が怪獣に接近するという構成になっていた。でも、そんな手は何度も使えない。

『MM9』では、「怪獣対策を練るチーム」という設定にして、登場人物たちが怪獣とからむ必然性を作った。

 読んだ方ならお分かりだろうけど、『MM9』の中での気特対の日常描写は、ほんとに必要最小限。たとえば、さくらがプライベートで何やってるかなんて、まったく描かれていない。これ以上削ったらスカスカになるというところまで削ってある。

 何でかというと理由は簡単。怪獣ものの主役は怪獣だから。怪獣と関係のない日常描写は、『MM9』の本質からはずれる。 だからなるべく描かない。

 怪獣ものにおける「人間ドラマ」というのは、あくまでフレーバー、料理で言うなら隠し味のスパイスでなくてはいけない。それがなかったらつまらないけど、ありすぎると邪魔になる。

 たとえば『MM9-invasion-』のヒメと一騎のラブコメ展開にしても、ちゃんと分析していただければ、すべて、スカイツリーと雷門でのバトル、皇居でのリターンマッチを盛り上げるためのお膳立てであることが分かるはず。怪獣もののメインはあくまで怪獣の大暴れのシーンであって、「人間ドラマ」はそれに奉仕するためにあるんである。

 もちろん僕は怪獣映画に「人間ドラマ」は不要だとは思っていない。料理を美味しくするためのスパイスは必要だから。

 でも、塩を入れるべき料理に砂糖を入れるような、「スパイスの入れ間違い」は勘弁してほしい。

 あと、スパイスを料理の本命の食材だと思いこむのも勘弁してほしい。

 そのへんを誤解したのがドラマ版の『MM9』。スパイスが美味しいからといって、スパイスだけで料理を作ろうとした。そりゃあ美味しくなるわけがないよ。

シン・ゴジラ』のいいところは、ゴジラの大暴れとその対策だけに絞りこんだこと。

「映画には人間ドラマがなくてはならない」というのは錯覚だ。いや、人間ドラマがある映画ももちろんあっていいけど、そんなもん無くていい映画もある。

 男女の愛とか、親子の愛とか、犯罪とか、社会批判とか、そんなものはこの映画に要らない。無駄な尺を取るだけだ。主役はゴジラ。それ以外の要素、つまり「人間ドラマ」はフレーバー。そう割り切って作られている。

 樋口真嗣監督は、『日本沈没』や『MM9』だけでなく、『ローレライ』や『進撃の巨人』など、同じ失敗を繰り返してきた人だ(上からの要望を断れない人だと言われてる)。今回の成功は、やはり脚本と総監督を手がけた庵野秀明氏の功績だろうと思う。

 だから「この映画には人間ドラマがない」という批判に対しては、こう開き直るべきだと思う。

「それがどうしたの? だってげんに怪獣映画として面白いでしょ?」

 あと、もうひとつ。切実なお願い。これは『シン・ゴジラ』に限ったことじゃないけど、作品に余計な意味を読み取らないでほしい。製作者が意図していなかったり、あるいはわざわざ排除した要素を、勝手につけ加えないでほしい。

シンゴジラで民衆がコールをするシーンは「ゴジラを倒せ」か「ゴジラを守れ」かどっちなのか!その真相は意外にも?

http://togetter.com/li/1033468

 ↑これなんかまさにそれ。

 庵野総監督はこの映画を、右にも左にも偏向しないように配慮して作っている。露骨なイデオロギーなんか入れたら作品がつまらなくなると分かっているからだ。

 なのに、何でわざわざ偏向した意味をつけ加えなきゃいかんのだ。

 つーか、怪獣映画をそんな観方して面白いの?

 素直に「怪獣ドラマ」を楽しめ。頼むから。