パラレルワールドの自分

 6月8日。

 宿泊していた新宿のホテルを10時にチェックアウトした後、遅い朝食を食べ、紀伊國屋で少し本をあさる。その後、CDを買うため秋葉原に到着したのが1時50分頃。 そうしたら、えらい騒ぎになっていた。

 最初は何か分からず、「交通事故でも起きたのか」と思っていたのだが、それにしては報道のヘリが飛び回っていたり、野次馬も多い。そのうち、妻から「今、秋葉原で通り魔が出たってニュースでやってるよ」というメールが届いた。 本屋に寄らずに秋葉原に直行していたら、事件に遭遇していたかもしれない。

 いや、僕が通り魔に刺し殺されていた世界も、きっとどこかにあるに違いない。

 SF作家ラリイ・ニーヴンの短編集『無常の月』(ハヤカワ文庫)の中に、「時は分かれて果てもなく」という短編が収録されている。

 パラレルワールドの存在が実証された世界で、原因不明の自殺や無差別殺人事件が続発する。事件を捜査していた刑事は、無数のパラレルワールドにはまったく別の人生を歩んでいる自分が大勢いるという事実が、自殺者や殺人者の心理に影響を与えているのではないかと思いつく……。

 想像していただきたい。パラレルワールドにはありとあらゆる可能性が存在する。たまたま買った宝くじで1等が当たってあなたが大金持ちになっている世界も、当然、どこかにあるはずだ。その一方、悲惨な人生を歩んでいるあなたも大勢いる。職にあぶれ一文無しになっているあなた。難病にかかってベッドで寝たきりになっているあなた。人生に絶望して自殺しているあなた。誰かに殺されているあなた。数々の体験を経て性格が歪み、ついには無差別殺人者になってしまったあなた……。

 不安にならないか?

「そんなことあるわけないじゃないか」と笑ってはいけない。現代物理学では、パラレルワールドが存在する可能性が高いとされている(興味がおありなら「エヴェレット 多世界解釈」で検索してみてほしい)。パラレルワールドが存在するなら、そうなる可能性がわずかでもあるかぎり、あなたが不幸のどん底にある世界、あなたが死んでいる世界、あなたが犯罪者になっている世界も、必ずどこかにあるはずなのだ。

 僕は子供の頃、パラレルワールドという概念を初めて知った時から、ずっとそれを考え続けてきた。

 この世界での僕は、小説家としてそこそこ成功している。愛する妻と子供がいて、けっこう幸せな人生である。ここまで登りつめたのは、才能もあったのだろうが、運の要素もあったことは否定できない。僕がデビューできず無名のフリーターのままの世界、結婚できず寂しい日陰の一生を送っていた世界は無数にあることだろう。中にはきっと、今この瞬間、僕が硫化水素で自殺している世界、僕が秋葉原で刃物を振り回して大勢の人を殺傷している世界もあるに違いない。

 だから僕は、秋葉原通り魔事件の犯人を憎みながらも、「自分と違う人種だ」という感覚は抱けない。僕も悪運が重なったうえに意志が弱かったら、ああなっていたかもしれないからだ。

 今回の事件では、例によって一部マスコミが、犯人の動機をゲームやアニメと関連づける報道をしている。中学時代の卒業アルバムに『テイルズオブデスティニー』のキャラクター(剣を持っている)が描かれていたとか、高校の文集の中に『エヴァンゲリオン』の綾波レイの台詞があったとか。

 アホか。

エヴァンゲリオン』のファンは少なく見積もっても100万人はいる。ゲームに出てくる剣を持ったキャラクターの絵を描く中学生にしたって、日本中に何万人もいるだろう。そのうちの1人が無差別殺人をやったから、因果関係がある? そんなことを言う奴、頭がどうかしてないか?

 最近になって残虐な事件が増えたと思いこんでいる者も多い。それも間違いである。最近の事件だから記憶に残っているというだけのことだ。ゲームやテレビがまだ無かった昭和初期にも、現代と同様の、あるいは現代のそれを上回る猟奇的犯罪が頻発していたことは、管賀江留郎『戦前の少年犯罪』築地書館)という本で、豊富なデータを挙げて立証されている。「最近の若者はキレやすい」などというのは大嘘なのだ。

 僕がいつも不思議に思うのは、残虐な事件が起きるたびに引き合いに出されるのがアニメやゲームだということだ。サスペンスドラマや時代劇やスポーツ中継が槍玉に挙げられることは、まずない。

 おかしくないか?

 サスペンスドラマの中では、人が刺されたり絞め殺されたり毒殺されたりするシーンがしょっちゅう出てくる。実物の人間が演じているのだから、アニメとは比べものにならないリアリティだ。

 時代劇では、毎回、主人公が刃物を振り回して、大勢の人間を斬り殺す。しかもそれが悪いことではなく、正しいこととして描かれている。

 ボクシングの中継は、人間同士が倒れるまで殴り合うところをえんえんと見せている。剣道は棒きれで頭や腹をどつき合う。フェンシングは剣で突き合う。レスリングやアメフトについては言わずもがな。

 にもかかわらず、そういうものは無害とみなされている。今年3月に茨城で起きた通り魔事件にしても、犯人がゲームの全国大会で準優勝したことが、事件と関係があるかのように報じられた(その「ゲーム」というのは『DOA』のビーチバレーだった)。その一方、犯人がかつて弓道部に所属していたことは、まったく問題にされなかった。弓はもともと人や獣を殺傷する道具である。いったい、ビーチバレーのゲームが弓矢より危険だと思う理由は何だ?

 反アニメ・反ゲーム論者が、サスペンスドラマや時代劇やスポーツ中継を危険視しない理由は簡単だ。それは彼らも見ているからだ。

 彼らは残虐な事件の報道に接するたびに、「こんなことをやる奴は俺とは違う人間だ」と思いこもうとする。そして、犯人がゲームやアニメが好きだったと報じられると、「それだ!」と飛びつく。犯人が異常になったのはゲームやアニメのせいだ。俺はそんなものを見ていない。だから正常だ……。

 そんなことはない。どんな人間だろうと、殺人鬼になる可能性はある。多くの人は「自分が通り魔に殺される可能性」は想像できても、「自分が通り魔になっていた可能性」は想像できない。いや、想像しようとしない。

 安易な「原因探し」など無意味である。サイコロを振って10回続けて1の目が出るという珍しい現象だって、6000万回に1回は起こる。「なぜ10回続けて1の目が出たのか」と問うことに意味はない。

 それと同じで、1億人の日本人の中には、不運や選択ミスが重なった末に人生のデッドエンドを迎えてしまう者が、必ず何人かいる。もちろんそれは犯罪への衝動に負けた本人が悪いのだが、こうした人間が現われるのは確率的にどうしようもないことなのだ。恐ろしいことだし、巻きこまれた被害者の方々は不幸だと思う。だが、いくら時代が変わっても、こうした悲惨な事件は必ず起きるだろう。

 反アニメ・反ゲーム論者が真に恐れているのは、殺人者ではなく、パラレルワールドのどこかにいる「殺人者になった自分」ではないかと思う。その可能性を否定したくて、殺人者と自分の相違点を必死に探そうとしているのではないか。

 犯人に同情しろとは言わないが、まず「犯人だって自分と同じ人間だ」と考えてほしい。自分だって殺人者になっていた可能性はあるのだと。

 それを認めることができず、ありもしない因果関係を信じるのは、それこそ現実逃避というものではないだろうか。