いじめ問題をめぐって(前)

 大津のいじめ自殺問題がらみで、こんなおぞましい発言をしている奴がいるというのを知った。

『オタクは数年後には犯罪者に成り下がるんだから自殺においこんでもいい』という大津いじめ自殺加害者擁護する者達

http://togetter.com/li/336774

 釣りじゃないかという意見もあるけど、たとえ釣りでもこんなことを書いていいわけがない。

「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり。悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり」(『徒然草』)

 人間のクズのまねをして不快な差別発言をまき散らす奴は、人間のクズである。

 僕も小中高校といじめの対象で、自分の体験をこれまで何度も小説の中に反映させてきた。『サーラの冒険』のサーラ、『妖魔夜行』の摩耶、『神は沈黙せず』の優歌、「審判の日」の悟、「宇宙をぼくの手の上に」の祐一郎なんかがそうだ。最近では『妖魔夜行 闇への第一歩』で、ヒロインの亜季にこんなことを言わせている。

「何ででしょうね? あたし、いっつもターゲットになっちゃうんですよね……ははは」亜季は今にも泣きそうな声で、空ろに笑っていた。「カッターで脅されたり、おなか蹴られたり……クラスの中でのいじめもよくありましたよ。三階の窓から落とされそうになったことも……『殺される』って思ったこと、何度もありますよ。誰も助けてくれなくて……一時、登校拒否になりかけたりしてね。ははは……」

「ほら、人間の嫌なところ、いっぱい見ちゃってるから。人間やだなー、やめたいなー、ってずっと思ってたの。中学の頃は、よく校舎の三階の窓から下眺めて、ぼんやり考えてたよ。死んだら猫か何かに生まれ変われるかなー、って♪ ははは……」

「お前……それ、重いよ……」

「あと、こんな風にホームに立ってると、電車が近づいてきた時に、つい前に踏み出したくなったり。橋を渡ってる時も、つい手すり乗り越えたくなったりね。ははは……」

「分かりますよ! 分からないとでも思ってるんですか!? あたしもあなたと同じなんですから! 中学の三年間、アニメに出てくるようなかっこいい男の子が空から降ってきて、あたしをみじめな境遇から救ってくれるのを、どれだけ待ったことか! 待って、待って、待って……」

 亜季の言葉が数秒、途切れた。胸をえぐる哀しみに耐えるため、歯を食いしばらなくてはならなかったのだ。

「……ようやく分かったんです。そんなのは嘘だって。現実にはそんなことはないんだって――幸せは空から降ってこない。努力してつかみ取らなくちゃいけないんだって」

 だいたいこのへんの台詞は僕の実体験が元になってる。もちろん小説的に脚色はしているので、事実そのままではないが。

 あるよ、マジで。「殺される」「死ぬ」って思ったこと。

 亜季のように、校舎の三階から下を見下ろして、ここから飛び降りたらどうなるかと真剣に考えたことも、何度もある。

 いちばん恐ろしかったのは(『神は沈黙せず』でもちらっと書いたが)、中学校で階段を降りようとしていたら、後ろから背中を強く突かれたことだ。バランスを崩し、勢いで踊り場まで十数段を一気に駆け下りた。最後の数段はジャンプして着地し、手をついた。運動神経の鈍い僕が途中で転ばなかったのは奇跡と言っていい。転んでいたら大怪我はまぬがれなかっただろう。

 踊り場に手をついたまま、恐怖で震えている僕の横を、数人の同級生が何事もなかったかのように通り過ぎていった。誰が突いたのかは分からない。だが、他の者もその瞬間を目撃していたはずだ。なのに何も言わなかった。

 その時、思った。階段を転びそうになって駆け下りる僕の姿は、あいつらにとってはさぞ滑稽に見えたんだろうな、と。

 やはり『神は沈黙せず』の「廊下ですれ違いざまに蹴りを入れられた」とか、「宇宙をぼくの手の上に」の「上履きに水飴を入れられた」というのも、実際に僕が体験したことだ。

 その日は高校の文化祭で、校内で水飴が売られていた。僕が下履きで校舎の外に出ていたわずかの時間にやられた。仕掛けた側にしてみれば、上履きに水飴を入れるというのは、気の利いたいたずらでしかなかったのだろう。

 上履きの内側にこびりついてなかなか取れない水飴を洗い落とす作業が、どれほどみじめで悔しいか、想像もつかなかったのだろう。

 いじめる側といじめられる側の心理には、決定的な断絶が存在する。

 いじめる側はおそらく、それがたいしたことだとは認識していない。階段で背中を突くのも、上履きに水飴を入れるのも、ちょっとしたいたずらで、たいしたことだとは思っていない。もしかしたら、そんないたずらをやったことなんか、とっくに忘れているかもしれない。

 だから、実際はいじめていたのに、「いじめてなんかいなかった」と認識している奴もいるのだろう。罪を認識していない奴に、罪の意識が生まれるはずもない。

 だが、やられる側にとって、それは死を覚悟しなければならないほど重大なことなのだ。

 だから死ぬまで忘れない。死ぬまで許さない。

「いじめられてるのに、どうして学校や親に訴えないの?」

 いじめられた体験のない人は、そう疑問に思うかもしれない。

 お答えしよう。いじめられっ子は、どこかの時点で絶望してしまうのである。「大人に訴えてもどうにもならない」と。

 中学の時の僕の体験を書こう。

 授業の前の教室で、以前から僕をいじめていた奴が、僕をサンドバッグのように殴っていた。関西弁で言うところの「どつく」というやつで、顔に傷がついたりしない程度の打撃だ。奴にしてみれば本気ではなく、手加減していたのかもしれないが、やられている側はそんなことで感謝するわけがない。

 チャイムが鳴り、そいつは自分の席に戻ろうとした。僕はそいつの腰にしがみついた。そいつは僕を引き離そうと、またさんざんにどつき回した。それでも僕は放さなかった。

 すぐに教師が来る。僕が殴られている現場を目撃する。「何をやってる!?」と問い詰めてくるに違いない。そうなったら、これまでのことを洗いざらい教師にぶちまけよう──そう決心していた。

 僕にとって精いっぱいの勇気だった。

 教師が教室に入ってきた。だが、彼が僕らを見て発した言葉は、僕の予想していたものではなかった。

「いつまでふざけてるんや。さっさと席に着かんか」

 たったそれだけだった。教師はそれ以上、何の追及もせず、ごく普通に授業を開始した。

 僕は拍子抜けした。そして絶望した。

 僕が一方的に殴られている光景は、教師には「ふざけてる」としか見えなかったのだ。

 それ以来、いじめ行為を教師に訴えようとは思わなくなった。きっと他の教師も同じだろうと思ったのだ。目の前で決定的な現場を目撃していながら、それを認識できない人間に、言葉で「いじめられています」と訴えても、聞き入れてくれるはずがない、と。

 上履きに水飴をいれられた時は、さすがに教師にそのことを知らせ、こうした嫌がらせを頻繁に受けていると説明した。上履きという決定的な証拠があるのだから、僕の訴えを聞いてくれるはずと思ったのだ。

 しかし、教師は何ひとつリアクションを起こさなかった。何ひとつ。

 きっと、「ただの害のないいたずらだ」と判断したのだろう。

 だからこうしたいじめ事件の報道で、「なぜ大人に相談しなかった」と被害者を非難する声を聞くたび、被害者の心理になってこう思う。

「相談したって、どうせ聞く耳持たないんでしょ」「真剣に考えてなんかくれないんでしょ」と。