昔のマンガは面白い:『エリート』編

  別に今のマンガがつまらないというわけじゃない。でも、昔のマンガもけっこういいものが多いんだ。

 特に最近、埋もれていた昔の作品が復刻されることが多く、「えー、これってこんなに面白かったんだ!」と、目からウロコが落ちることが多い。

 先日、読んだのが、原作・平井和正/画・桑田次郎の『エリート』(マンガショップ)である。初出は『少年キング』1965年34号から1966年22号、その続編が『魔王ダンガー』という題で67年16号〜67年31号まで連載されている。

 同じコンビで『少年マガジン』に連載されていた『8マン』が、桑田氏の銃刀法違反による逮捕で打ち切りになったのが65年13号だから、その4か月後ぐらいにスタートしていることになる。主人公・竜太郎の着用する戦闘服のデザインは、8マンに酷似している。

 僕は子供の頃、連載中に断片的に読んだだけ。ラストがどうなったかも知らなかった。そこで、2005年に復刻されたバージョンを読んでみることにした。

 滝竜太郎はマンガを描くのだけが取り得の、ぐうたらでお調子者の中学3年生。その竜太郎に、宇宙最古の超知性体アルゴールがコンタクトしてきた。

 アルゴールは人類を100万年も見守り続けてきた。人類が「神」と呼んできたのはアルゴールだったのだ。

「わたしの話をきくがよい。人類もいよいよ宇宙に進出するときがきた。

 だが、地球人類が、宇宙の平和をやぶるような兇悪な種族ならば、宇宙にのばなしにするわけにはゆかぬ。

 地球人類が他の宇宙種族と共に宇宙の平和をまもってゆけるかどうかを、ためさねばならぬ……そのときがきたのだ。

 合格しなければ人類は滅びる」

 アルゴールは地球人から3人の人間を選び、超人的な力を与えることにした。竜太郎はアルゴールによって潜在能力のすべてを覚醒され、普通の人間の5倍の知能、20倍の筋力を持つ「エリート」となる。

 他の2人は、アメリカ人の幼いジョン坊やと、大悪人のエルケーニッヒ・ダンガー。

 世界を征服することも可能なエリートの力。彼らがそれを正しく使えば、人類は栄える。しかし、誤用すれば人類は滅亡する……。

 そう、アルゴールは人類への審判を人類自身に委ねたのである。

 世界征服を企むダンガーと戦うため、竜太郎は超人的な知能を使って戦闘服を開発する。筋力を100倍以上に増幅し、反重力で空を飛び、様々な機能が隠されたすぐれものだ。

 対するダンガーが開発したのが、ペンシル・バニューム弾。ライフル銃から発射できる超小型の原爆である。ダンガーは竜太郎をおびき出すため、日本国内で原爆テロを起こす。それも何度も!

 たった1発のライフル弾によって、数千人が一瞬で虐殺されるという恐怖。その惨状が具体的に絵で描写される。桑田氏のスマートな絵柄のせいで、さほどグロくはないものの、やはり衝撃的だ。

 そう言えば、最近のマンガやアニメや日本映画では、各方面に配慮してか、核兵器が登場することさえ少なくなった(「N2爆薬」とか「MHD電池」とか架空のガジェットに置き換えることが多い)。今の子供は核の恐ろしさを知らずに育つのではなかろうか?

 さて、『エリート』が素晴らしいのは、アイデアとテーマとプロットが一致していることだ。

 平凡な作家なら、このマンガを勧善懲悪のヒーローものにしてしまっていただろう。確かに竜太郎とダンガーの、知力と体力を駆使した戦いは面白い。だが、単にダンガーだけを悪の根源として描くのでは、テーマ的には間違いである。なぜなら、アルゴールが糾弾しているのは人類全体の悪だからだ。

 この作品が描かれた頃は、ベトナム戦争の真っ最中。アルゴールは竜太郎をベトナムにテレポートさせ、人間同士が殺し合い、赤ん坊まで殺されている恐ろしい現実を見せつける。

「なぜ地球人は、人間どうしにくみあい、殺しあうのか。つみもない子どもまでまきぞえにしてしまっても平気なほど、戦争がすきなのか。人をにくみ、殺しあうことがすきなのか。地球人のひとりとしてこたえてみよ!」

「ち、ちがいます」

「それではこのありさまは何ごとだ。地球人がそれほど凶暴で下等な生物ならば宇宙に用はないっ。ほろぼすまでだ」

 このストレートなメッセージ性! これこそ最近の少年マンガにはめったにないものではないだろうか。作者の都合で語られる中身のない演説ではない。平井氏が自分の生の想いを叩きつけてきている。

 当然、凶暴な悪の心は竜太郎の中にもある。

 CIAが竜太郎の秘密を嗅ぎつけた。CIAの秘密工作員タックは、竜太郎の両親を誘拐する。

 両親は竜太郎の秘密を何も知らない。しかし、タックの上司のドランケ大佐は、両親を洗脳機にかけ、秘密をしゃべらせようとする。「さいみん機にかけると気がくるうおそれがありますっ」と抗議するタック。大佐はそれを無視する。

「これは洗脳機だ。ごうもんにかけてるわけじゃないぞっ。

 ごうもんというのは、つめをはいだり火でやいたりすることだ!!

 わしは、そんなことはしておらん」

 ブラックユーモアを感じさせる台詞。好きです。

 案の定、洗脳は失敗。ようやく救出に来た竜太郎が目にしたのは、発狂してしまった両親の姿だった!

「くるっているっ! あああーっ! ふたりとも気がくるってしまっているっ!!」

 怒りに燃える竜太郎は、両親の仇を討つために大暴れをはじめる。一方、無実の人を狂わせてしまったことを後悔したタックは、罪の意識にかられ、おとなしく竜太郎に討たれようと決意する。

 しかし、タックのそばにいた女性超能力者ローリアが、竜太郎が近づいてきたとたん、苦しがって倒れてしまった。竜太郎のすさまじい怒りの心をテレパシーで感じてしまい、敏感な神経を破壊されて狂ってしまったのだ。自分のしでかしたことに呆然となる竜太郎。

 ここでもまた、タックの口を借りて、平井節が炸裂する。

「なんてばかげているんだ!! なんてばかげているんだ!!

 だれもかれもがおかしくなってしまう……。

 世の中がくるっているからだ。人間どうしがたたかい、にくみあったり、ころしあったりするだけの理由があるというのかっ。

 こんどの事件もそうだ。エリートのきみを手に入れるために、われわれのやったこと……よその国にとられまいとしてひっしになってやったこと…………。

 なんのためだ!! きみを手にいれれば、その国は軍事てきに強大になる。

 つまり戦争に勝つためだ。

 気がくるっているとしかおもえないっ!」

 近年、「狂う」という言葉にみんなが敏感になり、使われなくなってきている。角川書店の場合、「狂」という文字すべてに校正でチェックが入る。「熱狂的」「狂信的」「狂騒」「荒れ狂う」といった言葉すべてがチェックされるんである。信じられます?

 しかし、世の中には「狂」という言葉を使うしか訴えられないことがある。上の台詞を「くるっている」という言葉を使わず、同じニュアンスで、同じぐらいインパクトのある文章に書き換えられるかどうか、やってみるがいい。

 ここは「くるっている」でないとだめなのだ。

 科学者スパイラル博士に不意をつかれ、倒されて戦闘服を脱がされる竜太郎。しかし、電子頭脳を有するロボットである戦闘服は、竜太郎の「あばれろ……あばれろっ」「なにもかもぶちこわしてしまえっ」という音声による命令に従って、空っぽのまま勝手に動き出し、手当たりしだいに破壊を開始する。竜太郎が気を失ったため、戦闘服を止めることは誰にもできない。

 竜太郎の怒りと憎悪がのりうつったように暴れ続ける戦闘服。ついには駆けつけた警官隊さえも虐殺しはじめる……。

 この他にも、随所に出てくる衝撃的な展開。単なる娯楽のための残酷描写ではない。人間の内なる残酷性を描くために、必然的に描かねばならないことだ。それを逃げることなく真正面から描く平井・桑田コンビ、その真摯さに感服する。

 とは言っても、重いテーマ性のみの作品ではない。戦闘服の機能を最大限に活用したアクションは、今見ても十分に楽しめる。そう言えば最近のマンガのバトルは、拳法ものや霊能力系のバトルばかりで、こういうSF的メカによる戦いというのも、あまりないな。やっても面白いと思うんだけど。

 萌え要素もあるぞ。竜太郎のガールフレンドのジュディちゃんだ。特に後半、ダンガーに洗脳されかけたせいで、性格が男っぽく変わってからが最高! 自ら戦闘服を着てダンガーに立ち向かったりするかっこよさ。前半のおしとやかさとのギャップが、もう萌え萌えっすよ。

 ああ、それなのに、それなのに。

 ぶっちゃけてしまおう。このマンガ、打ち切りなのだ。それまでの伏線をみんな放り出して、いきなり終わってしまうのである。おいおい、そりゃないよ。ここまで夢中にさせておいて。

『サブマリン707』の「アポロノーム編」とかもそうだけど、なまじ面白かっただけに、こういうのってがっくりきちゃうんだよねえ。

 ああ、完全な『エリート』が読みたい! 平井さんがこの話をどうやって終わらせるつもりだったか知りたい。『デスハンター』を『ゾンビーハンター』としてリメイクしたように、『エリート』の真の結末、書いてもらえませんかね。今からでも遅くないから。このテーマは現代でも通用すると思うんだけど。

 あるいは、僕が書いてもいいかも? と言うか、書きたい。アイデアだけ借りて、自己流にアレンジして……。

 と、考えていて、実はすでに書いていたことに気がついた(笑)。『詩羽のいる街』の中に出てくる架空のマンガ『戦場の魔法少女』だ。『エリート』の単行本を読んだのは『詩羽』の連載が終わった後なんで、影響を受けたはずはないんだけど、それにしても妙に似ている。主人公が目の前で両親を殺されて、ショックで大虐殺をはじめちゃうところとか。

 うーん、これはやっぱり、僕の発想の根底には平井さんの作風の影響があるってことなんだろうなあ。

 結末だけは不満が残るけど、いいマンガでした。平井さん、桑田さん、ありがとう。