遠近法を知らない人たち

 もう十数年も前のこと。 妻が知り合いの作る『名探偵コナン』の同人誌にマンガを寄稿することになり、僕が手伝ったことがある。服部平次がメインの本である。

「平次は好きやけど、顔にトーン貼るのが大変や」

 そう妻が言ったもんで、「アシスタント、やったげようか? トーンぐらい貼れるで」と申し出たのがきっかけ。成り行きで背景も僕が描くことになった。

「ここ、ボウリング場のシーンやから、背景にレーン描いて」

 と妻に頼まれた。ボウリング場のレーンなら、直線を何本か引いてピンを描き加えるぐらいだから、たいして難しくないよな……と、気軽に原稿を受け取って、困惑した。

 線が引けない。

 妻が描いた絵は、コマの中に同じぐらいの大きさのキャラクターが数人、適当に配置されてるだけなんで、どういう線を引いても矛盾が出てしまうのだ。画面手前のキャラクターが小人になってしまうか、奥のキャラクターが宙に浮いてしまうか。

「ごめん。この絵、消失点、どこ?」

 と訊ねると、妻はきょとんとした様子で、

「消失点って何?」

 と問い返す。

「学校で美術の時間に習わへんかった? 遠近法とか、一点透視とか二点透視とか」

「うーん、習(なろ)たような気もするけど、忘れた」

 妻はそれまで、同人でマンガを描いた経験は何度もあったが、背景を描かないか、あるいは奥行きのある背景を描いたことがなかったので、遠近法を知らなくても支障がなかったらしいのである。

 僕はしかたなく、「まず画面上に消失点を決めて、そこに向かって集中線を引いて、人物をその線に合わせて配置して」と、美術の基礎を講義しなくちゃならなかった。

 実は妻と同じように、遠近法というものを知らない(習ったけど完全に忘れている)人間が、けっこう多いらしいのだ。

イスラム国の映像は合成!!という主張

http://togetter.com/li/772235

 影の方向が違うから不自然だ! 合成だ! と主張する人が何人も。

>イスラム国の日本人殺害予告 身代金要求ビデオの人質の影が左右違うのでクロマキー合成の可能性があります。

>イスラム国の動画見てると、人質2人の首の影の出方が違うな。場所特定されないように、別々に撮って背景も合成してんのかな。

>なんか違和感があると思ったら影の向きが不自然。光源が2つあるのかあるいは合成か

>右の人質の首の影は左寄りにできてるけども左の人質の首の影はがっつり右にできてますよね。太陽光の当たり方が二人で違うわけないんだから。合成映像っすわこれwwwwwイスラム国もっと上手に作れよ脅迫するくらいなら 笑

 この合成説、ネットでの噂だけでなく、テレビのワイドショーでも取り上げられたんだそうで、けっこう多くの人が合成説を信じてしまったようなのだ。

 遠近法というものを知っていれば、この影がおかしくも何ともないことはすぐに分かるはず。二人の影は実際には平行だけど、画面奥の消失点に向かって伸びているため、画面上では平行になっていないというだけだ。

 と言うか、日常生活でもこんな影、みんなしょっちゅう目にしてるはずなんだけど?

 これは街でたまたま見つけて撮った影。3本の柱(電柱と信号機と街灯)は垂直に立っていて、影も実際には平行なんだけど、画面上では平行になっていない。画面奥の消失点に向かって収束しているように見える。

 首の影も不自然じゃない。湯川さんと後藤さんはまったく同じ方向を向いているではなく、カメラの方を向いている。つまり顔の向きが平行ではなく、平行よりわずかに内側を向いている。そのことに気づけば、これが自然な影だと分かるはずだ。

「影の向きが左右逆になる事がどうして有り得るのか」と、「影の向きが合っているのだとしたらなぜ合成っぽく見えるのか」

http://togetter.com/li/772457

 リンク先にもあるけど、この影の向きの話は、アポロ疑惑の時にも言われていた。 月面の宇宙飛行士の影が平行でないのは、光源が複数あるからだというのだ。

 僕にとっては逆に不思議なことだが、「画面に映る影はすべて平行であるはず」と思いこんでいる人間が多いのだ。平行ではない影なんて、みんなしょっちゅう見ているはずなのに、認識されていないのである。

http://www.asios.org/apollo.html#q11

 偶然だが、今週(2月14日)のNHK『幻解!超常ファイル』はアポロ疑惑を取り上げる予定だとか。この影の話も出てくるので、ぜひご覧いただきたい。

http://www4.nhk.or.jp/darkside/x/2015-02-14/21/2037/

 ISILの動画については、「風で衣服のなびき方も左右違いますね」と書いてる者もいる。これもおかしい。クロマキー合成のためにスタジオの中でグリーンバックで撮っているなら、そもそも風は吹かないはずである。

 これもやっぱりアポロ疑惑の時に言われた「月面で星条旗がはためいている」「スタジオの中で撮られた証拠だ」という主張と同じ。何でスタジオの中にわざわざ風吹かすんだよ。

「衣服のなびき方も左右違いますね」と言っている者は、やはり日常生活で風の振る舞いをよく見ていないのだろう。二人の女性が風に吹かれたら、スカートがまったく同じようにめくれると思っているのか?

 朝日新聞もこんな誤報を載せた。

背景の砂漠に人物後付けか 人質映像を専門家解析 「イスラム国」事件

http://www.asahi.com/articles/DA3S11564875.html

 上のTogetterにも説明があるけど、これは圧縮率の違いではなく、画像のコントラストの境界を誤認したもののようだ。実際、覆面の男の眼の部分にもはっきりノイズが出ていて、これが合成の証拠だと言うなら眼だけ合成したの? というおかしなことになってしまう。

 そもそも、この合成説が根本的におかしいのは、合成なんかしなくてはならない必然性が何もないということである。

「自分達の居場所がばれないために決まってるだろ」って? だったら屋内で壁をバックに撮影すればいいだけでしょ?

 つーか、背景に何もない砂漠で撮ればいいだけだよね? この映像みたいに。

 このへんは9.11陰謀説と同じ。「ペンタゴンに突入したのは旅客機ではなく巡航ミサイルだ!」と主張する者たちは、陰謀の黒幕がなぜそんな手間のかかることをしなくてはならなかったのかを、まったく説明できていない。

20日の映像「合成の痕跡なし」科警研分析、撮影日は不明

http://www.sankei.com/world/news/150128/wor1501280020-n1.html

 科警研は合成ではないと断言した。まあ、それでも「分析しても分からないような高度な合成だ!」という主張は可能だろうが(その場合、ISILの動画だけではなく、最近、世界で撮影されたすべての動画を疑わなくてはならないことになる)、少なくとも「影の向きが違うから合成」という主張は完全に崩壊した。

 前にも本で書いたが、知り合いの編集者に、「アポロの写真で影の向きが違うのは複数の光源があるからだという話がありますけど」と言われたことがある。僕が上のようなことを説明し、

「だいたい、光源が複数あったら、影も複数できるでしょ?」

 と指摘したら、その編集さん、

「ああ、言われてみればそうですね」

 と、おおげさに感心していた。

 その人も決して無知ではなく、ちゃんとした教育は受けているはずである。にもかかわらず、「光源が複数あったら影も複数できる」という当たり前のことに気がついていなかったのだ。

【今回の教訓】

・学校教育などで得た知識と、その実際問題への応用との間には、大きなギャップがある。

・多くの人は日常生活でよく目にしているものを見落としている。