トンデモ・ドラマ『ムーン・パニック』

 いろいろ書かなきゃいけないことがたくさんあるんだけど、コミケ前の上に早川書房の仕事が詰まってるもんで、一件だけ。

 また月をめぐる話である。

 8月11・12日の深夜、NHKで、カナダとドイツの合作ドラマ『ムーン・パニック』が放映された。(4月にもBShiで放映されたらしいが、僕は見ていなかった)

 NHKの公式ページによれば、

科学者たちの予想にもとづいたスリルに満ちたストーリー、リアリティあふれる合成映像。「ムーン・パニック」は、いつ起こるかもしれない人類の危機を壮大なスケールで描いていく科学シミュレーション・ドラマだ。

 しかし、実際に見てみたら、とてつもないトンデモ・ドラマだった。

 以下、ストーリー部分をで表示する。やむをえずネタバレしている箇所もあるが、批評目的なのでご了承いただきたい。

天文学者が1万年に一度という珍しい大流星雨の到来を予測する。

 歴史上に記録が残っていないものを、どうやって予測したのだろうか?

・流星雨の夜、多くの人が夜空を見上げていると、月の近くに太陽光を反射する星が現われる。それは直径19kmもある天体だった。

 そんな大きさで、しかも太陽光を反射して輝いているなら、地球に接近する何週間も前に天文学者かアマチュア天文家が発見しているはずである。

・天体は月に衝突する。

 画面上では、明らかに流星雨と違う方向からぶつかってきている。ということは流星といっしょに来たわけではないらしい。流星雨の夜に起きたのは偶然か?

・飛び散った破片はその夜のうちに世界のあちこちに落下する。

 38万kmを数時間で飛んでくるってことは、秒速何十キロで飛び散ったのか。

・地球に落下した破片が発見され、高い密度を持つ褐色矮星のかけらだと判明する。主人公の天文学者アレックス・キトナー博士の説明によれば、褐色矮星とは「死んだ星の遺物」「燃え尽きた星が収縮して圧縮された状態になってる」のだそうだ。

 褐色矮星は「燃え尽きた星」なんかじゃない。木星よりも大きいが太陽よりかなり小さいため、核融合反応が起こらず、恒星になれなかった星である。密度もそんなに高くない。脚本家は明らかに白色矮星と混同している。

・月にめりこんだ褐色矮星のかけらの質量は、地球の約2倍と判明する。

 待て待て、地球の約2倍ってことは、月の160倍!? そんなもんが衝突したら、月は粉々になるんじゃないか!?

 ちなみにキトナー博士は「(月の)質量が地球の6分の1」とも言っている。それは表面重力であって、質量ではない。月の質量は地球の1/81である。脚本家は月の質量さえ調べなかったらしい。

・衝突によって月の軌道が変化し、地球の周囲を楕円軌道を描いて回りはじめる。

 おーい、月の方が重くなったのに、まだ月が地球の周囲を回ってるんかよ(笑)。

 現在、月と地球の質量比は1:81なので、その共通重心は、地球と月を直線で結び、距離(38万4400km)を81:1で分割した地点にある。それは地球の中心から4700km。つまり地表から1700kmの深さにある。この点を中心として、月と地球は公転している。回転の中心が地球内部にあるから、「月は地球の周囲を回っている」と表現しても差し支えないわけである。

 しかし、質量比が2:1になったらそうはいかない。共通重心は地球から約26万kmの地点になる。その点を中心として、月と地球は向かい合って公転することになる。

・月の接近で電磁場に乱れが生じ、各地で謎の放電現象が起きる。ヨーロッパでは人間や車が宙に浮かび、列車がレールから離れて空を飛ぶ。

 何で金属でもないものが電磁力で宙に浮くのかは、作中でもツッコまれている(笑)。すべての物質は電磁エネルギーでできているから……とキトナー博士は説明する。まあ、水が反磁性体なのを利用して生きたカエルを磁力で宙に浮かべるという実験はあることはあるけど、10〜20テスラという超強力な磁場が必要。人間を浮かせるのはかなり無理。

 しかも、このエネルギーは塵や蟻のような小さなものにはほとんど作用しないという設定らしい。だったら、いちばん大きな「大地」に作用しないのはなぜだろう。地面が揺れている様子はなく、木は立っているし、建物も崩れないのだ。

・海では巨大な貨物船が宙に舞い上がる。

 でも周囲の海水はまったく持ち上がりません(笑)。だから何でだよ。

・月の軌道は地球の引力に引かれてしだいに変化し、らせん軌道を描いて39日後に地球に衝突すると判明する。

 もういいかげんにして! ありえませんから、そんな運動。

 あと、気になるのは潮汐力の影響がまったく描かれていないことだ。月の質量が160倍になったということは、潮汐力もいきなり160倍になったということである。世界中をものすごい高潮が襲わなきゃ変なんだが。 (オーストラリア沖に破片が落ちたために津波が起きる場面はあるのだが)

・地球滅亡の危機を回避するため、キトナー博士はある計画を提案をする。彼はNASAで、電磁場を使って無重力状態を作り出す研究(ええっ!?)をやってたんだそうで、それを応用しようというのだ。

 おりしもEUとロシアの共同による有人月探査計画が進められていた。それを利用し、月面に4人の飛行士とある装置を送りこむ。

 装置は小型の原子力発電機で、そこから月面に開いた亀裂の奥めがけてミサイルを発射する。ミサイルには軌道エレベーター建設用に開発された「スチールカーボンナノワイヤー」がつながっている。

 ワイヤーを通して、月の地底にめりこんだ褐色矮星のかけらに電流を送りこむと、何だかよく分からない原理(ほんと、リピートして説明を聞き直してもよく分からない(^^;))で、月と褐色矮星のかけらの間に磁気による反発作用が生じ、褐色矮星のかけらが月からはじき出される。これによって月が元の軌道に戻るというのだ。

 なんか単一磁極(N極だけ、S極だけの磁石)が存在すると思いこんでるんじゃないかって気がするが、もっと問題なのは、褐色矮星のかけらの方がはじき出されて、月が軌道に残るという説明だ。

 褐色矮星のかけらの方が月より約160倍重いのである。両者の間に反発作用が生じたら、激しく吹っ飛ばされるのはどう考えても月の方だ。

 この脚本家は作用−反作用の法則も知らないらしい。

 しかし、僕は地球を一個動かすのにもずいぶん苦労したんだが(笑)、小さな装置一個で地球の二倍もの質量のある天体を安直に動かされてはたまらない。

・装置を月面で組み立てるのには専門家が必要、というので、宇宙飛行士の訓練など受けたことのないキトナー博士が、他の3人とともに、カザフスタンから発射された宇宙船で月に行く。

 宇宙服を着て月面で作業しているキトナー博士は、苦しそうに言う。

「重力が大きいから体がかなり重い」

 うわー、そうだよ! 月の質量が大きくなってるんだから、表面重力も大きくなってるんだ!

 重力は質量に比例し、中心からの距離の2乗に反比例する。地球の2倍の質量で、半径が地球の3.67分の1ってことは……。

 表面重力は27G!

 宇宙服を着たキトナー博士の体重は、軽く3トンを超えているはず。よく立てたな、キトナー博士。つーか、それ以前に宇宙船が着陸できないだろ、この重力じゃ。

 よく考えてみると、この話、月の質量が増えることにストーリー状の必然性が何ひとつないのだ。人間や車が浮き上がるのは電磁エネルギーとやらのせいで、月の引力のせいなんかじゃないんだから。

 何でこんな変な設定にしたのか?

 思うに、最初は「月の引力が強くなって、人間が宙に浮いたりしたら面白いんじゃね?」とかいうノーテンキな発想だったんじゃないだろうか。その線で脚本を書き、CGや特撮シーンを製作していたら、途中でそれが科学的にありえないと分かり、急遽「電磁エネルギー」に変更したんじゃないかと思う。そうとでも考えないと、この設定の混乱は説明がつかないのだ。

 登場人物の行動もおかしい。キトナー博士は、世界中で電磁場の異変が起きていることを知っていながら、2人の我が子をヘリコプターに乗せてワシントンに呼び寄せようとするのだ。

 彼は会議の席で大統領に「乗り物に乗るのはやめて屋内にいるように」と国民に呼びかけるよう進言する。その会議が終わった後でようやく、実家に電話をかけて、ワシントンに来ないように言おうとするのだ。時すでに遅く、電磁場の異常のために電話は通じなくなっていた。

 まず我が子の安全を考えろよ、と子供を持つ父親としては思ってしまう。

 人間がふわふわ宙に浮くシーンも頭痛いが、いちばん頭が痛かったのが、事態を説明するためにホワイトハウスに呼ばれた女性天文学者が、まずケプラーの第三法則について大統領に説明しようとしたら、大統領が「私は科学のことは詳しくない」と説明をさえぎるシーン。

 科学に詳しくないのは、あんたら番組のスタッフだよ! 高校生レベルの物理も知らないし、月についての基本的なデータも調べずに番組作ってるじゃないか!

 謝れ! ケプラーさんに謝れ!

 これが『ドクター・フー』みたいなコミカルな番組だったら、どんな荒唐無稽なことが起きても許せる。実際、僕は『ドクター・フー』の大ファンである。

 あるいはせめて「SFドラマ」と銘打ってくれたら、「出来の悪いSFドラマだな」と笑って済ますこともできた。

 しかし、『ムーン・パニック』は違う。この番組を、NHKは「科学者たちの予想にもとづいた」「いつ起こるかもしれない」「科学シミュレーション・ドラマ」と称しているのだ。科学的に間違いだらけのこの番組が、科学的でリアリティがあるかのように偽って宣伝しているのである。

 これはさすがに許せない。天下のNHKが……というか、マスメディアがやっていいことではない。

 ちなみに、ネットでこの番組の感想を検索してみたら、科学的におかしいことに気がつかずに見ている人もいる反面、ちゃんと的確なツッコミを入れている人もいて、ちょっと安心。視聴者がみんな騙されているわけではないようだ。