ヘドが出るような思想であっても

 31日のエントリを読み直していて、思い出したことを補足。

> あるいは、ネットでベストセラーになったコミック『サンバーン』の作者、三崎純へのインタビューという話もあった。参考のために読んでみた私は、すぐに編集者に電話をかけ、「この仕事は別の人に回して」と依頼した。身障者の少女をレイプし、いじめ抜いた末に殺害する主人公の姿と、それをギャグを交えてあっけらかんと描く作者の姿勢は、私には反吐が出そうなほど不快だった。紙の本が出版物の主流で、出版業界のモラルが守られていた時代には、とうてい陽の目を見なかった作品だ。こんなものを描く人物がいることにも、それを夢中になって読む大衆がいることにも、やりきれなさを覚えた。

――山本弘『神は沈黙せず』18章

 もちろん『サンバーン』というのは架空のマンガである。しかし、これにはヒントとなった実在の作品がある。マンガではなく、ある作家の書いた小説だ。

 こんなストーリーである。

(結末までバラしているが、批評のためにどうしても必要なことなので、ご理解いただきたい。なお、不健全なシーンや暴力シーンを見たくないという方のために、引用箇所は文字色を反転させてある)

 ある夜、ギャンブルの帰り、主人公の礼次が相棒の武井を助手席に乗せて車を走らせていると、バス停に立っている女を目にする。もう深夜で、バスのない時刻だ。

 礼次たちは「駅まで送って上げる」と言って女を車に乗せると、人気のない場所まで行き、バックシートで彼女を強姦する。

「叫べよ! が誰も来やしないぜ」

 着たものをたくし上げながら礼次が言い返した。

 女は尚叫んで身をよじった。

「黙らねえか、良い加減に!」

 シートの背から殆ど全身を逆さにのり出した武井が、叫びながら女の眼の辺りを上から力一杯殴りつけた。女はそれでも叫んだ。が何故か突然、失神でもしたかのように女は温和しくなる。

「よしよし、なまじ言うことをきかないでいるよりそうしてりゃ顔も腫らさずにすむんだ」

 礼次は女を、使われていない兄の別荘に連れてゆく。ここでも武井は女を犯す。

「面倒臭えや」

 言うなり武井が飛びかかった。女は悲鳴を挙げて逃げた。立ち腰で逃げようとする女を、武井が前へ突き飛ばす。女は低い姿勢でよろけながら、いやという程壁にぶつかって投げ出された。手肢を縮めてこばもうとする女を、一本一本、手と足と、引き離して抱き敷きながら武井は言った。

「礼、呼ぶまで向こうにいろよ。気が散るぜ」

「いやっ、いやだ!」女は叫んだ。

「いやでも駄目さ。一つぐらい殴ったからってそう邪慳に言うなよ」

「電気消してやろうか」

「馬鹿言え、結構だ」

 礼次は部屋を出て台所へ水を飲みに歩いていった。その後で、女が何か叫んだ後、また武井が殴りつけるばしっという鈍い音が聞こえて来る。

 女は武井を嫌うが、なぜか礼次に対しては好意を抱いているようだった。様子がどうもおかしいので事情を訊ねてみると、「大船の鎌倉病院」から出てきたばかりだと言う。そこは有名な精神病院だった。(退院したのか脱走したのかは定かではない)

 翌日、礼次たちはパーティに出るので外出しなくてはならない。そこで女が逃げないように柱に縛りつける。

「つかまえるんだ」

 言わぬうちに武井が女を引きずり倒した。

 両掌を後ろにくくり上げ柱に結びつけると、女は頭を振り何やら叫ぶと、盛一杯の抵抗で足をばたつかせる。

(中略)

「野郎、静かにするように、股ぐらにほうきでも突っ込んどいてやろうか。大方それなら奴あ嬉しそうにじっとしてるぜ」武井が言った。

 二人は縛り上げた女を放置して出かけると、仲間の高木たちを呼んで見張りを頼む。礼次たちが出かけている間に、高木たちは女を輪姦する。

 礼次たちが帰って来る翌日の昼まで、夜っぴて五人の男たちが倦かずに代る代る、延べにして二十回以上も、同じことを女に向って繰り返した。

 仕舞いに女は呼吸をするただの道具のように横たわっているだけだった。(中略)

 後が気になってか、礼次たちはひる前に帰って来た。

「畜生、五人がかりでやりやがったな」

「見ろよ、死んだ魚みてえな顔をしてやがるぜ」

(中略)

「何か食わせたか、女に」

「まだだ」

「気のきかねえ奴だ。それじゃ奴あ丸二日何も食ってない訳だ」

「飲まず食わずで丸二日、ただひたすらにいか」

 節をつけて高木が言った。

 礼次たちは、用済みになった女を、高木の知り合いの熱海の売春宿に売り飛ばす。

 しかし、五日ほどして店から電話がかかってくる。女の様子がおかしいので困っている、迷惑だから引き取ってくれというのだ。

 礼次は武井や高木と相談し、女を始末することにした。礼次が店の前で見張り、女が外に出てきたところを、誰にも見られないように車に乗せる。

 礼次は女を海岸に連れてゆき、甘い言葉で油断させておいて、崖から突き落とす。

 殺しを終えた礼次は、武井たちと合流する。

「これでやっと終らせやがった」

「いや、まだあるぜ。明日もう一度、ひと足違いで俺たちがあの店へ女を迎えに行って、それで何もかも完全に終りという訳さ」

「その割にこの遊びは安く上ったな」

 横の灰皿で煙草をひねりながら武井が言った。

 これで終わりである。

 いかがだろうか。精神を病んだ女性を強姦・輪姦・虐待したうえに殺害したにもかかわらず、犯人たちは何の罰も受けない。彼らはわずかのためらいもなく犯罪を実行し、自責の念を微塵も抱かず、すべてを「遊び」と言い切る。

 まったく救いのない話だ。

 女は「二十五六に見える」と描写されていて、「非実在青少年」には該当しない。しかし、この小説が東京都の条例改正案で言うところの「強姦等著しく社会規範に反する行為を肯定的に描写したもの」であることは確実だし、人によっては「犯罪を誘発し、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの」と判断するかもしれない。

 そろそろこの小説のタイトルと作者名を書いてもいいだろう。

 タイトルは「完全な遊戯」。石原慎太郎氏(現・東京都知事が1958年に発表した短編である。

(同じ題の映画もあるが、ストーリーはぜんぜん違うらしい。注意)

 つまり『神は沈黙せず』のヒロインは「完全な遊戯」の存在を知らず、「紙の本が出版物の主流で、出版業界のモラルが守られていた時代には、とうてい陽の目を見なかった作品」と勘違いしている……という皮肉なのである。

 こんな不健全な小説、とっくに絶版? そんなことはない。僕が読んだのはずいぶん前だが、調べてみたら、たった7年前、この作品を表題作にした短編集が、新潮文庫から新たに出ていた。偶然にも『神は沈黙せず』が出たのと同じ年、ほんの1ヶ月ほどの差である。(『完全な遊戯』は9月、『神は沈黙せず』は10月)

 さすがにもう新刊書店には並んでいないが、古書店なら容易に手に入る。僕も先月、資料にするため、新たに買い直した。

http://www.amazon.co.jp/dp/4101119112

 どうでもいいが、先月買った時、古書価格は1円だったのに、今見たら最低価格でも840円(定価は514円+税)。今回の騒ぎで若い世代に存在が知られ、古書価格が釣り上がっているらしい。むしろ1958年に出た最初の版の方が安いんだけど……。

 何にしても、この本がほんの7年前には新刊書店の文庫コーナーに平然と並んでいたことは事実である。もちろん成人向け指定などされていないから、子供でも買えただろう。

 1958年当時、どれぐらい読まれたのかは、よく分からない。しかし、石原氏は当時の大人気作家だったし、半世紀経っても古書市場にかなり出回っているところを見ると、数十万部は売れたに違いない。

「エロゲやエロマンガと文学は違うだろ」などと嘲笑う人がいるかもしれない。

 そうだろうか? 女を強姦して殺すだけの話(本当にただそれだけの話なのだ!)が、はたして「文学」と呼べるのかはさておいても、文字と絵に何の違いがあるのだろうか。マンガなら規制していいが、小説なら許される……という根拠は何だ?

 仮にこの「完全な遊戯」を忠実にマンガ化したら、おそらく「不健全図書」として規制対象になるのではないか。

 当たり前の話だが、小説が読者に影響を与えることはよくある。

 若手作家の中には、若い頃に僕の小説を読んでいたという人が何人もいる。編集者の中にも、中学や高校の頃にライトノベルに夢中になっていて、出版業界に入ることを決めた人がいる。

 僕自身の体験も少し書かせてもらおう。

 11〜12歳の頃、父がよく中間小説誌や週刊誌を買ってきていて、家の中に無造作に放り出していた。僕はそれをよく読んでいた。中には山田風太郎、宇野鴻一郎、梶山季之などの小説が載っていて、中にはエロいシーンも多かった。今から思えば、だらしない父だった(笑)。

 そうした小説誌の中に、筒井康隆氏の「アフリカの爆弾」(初出時は「アフリカ・ミサイル道中記」という題だった)が載っていた。ターザンまで出てくるハチャメチャな展開で、「大人なのにこんなアホな小説を書いてる人がいる!」と大喜びした。それ以来、筒井氏の大ファンになり、作品を読みあさった。

 僕がSF作家を志すようになったのも、筒井氏の影響が大きい。言ってみれば、エロ小説の載っている雑誌を父が家の中に放り出していたからこそ、今の僕がいるようなものだ。

 小説には人生を動かすほどの力がある。

 当然、いい影響だけでなく、悪影響だってあるだろう。マンガもそうだが、小説を読んで犯罪に走る者がいないとは、断言できない。だから創作者は自作の影響について責任を持つべきだ、と僕は思っている。

 僕はたとえ小説の中であっても、レイプを肯定的に描かないことを矜持にしている。『妖魔夜行/暗き激怒の炎』や『サーラの冒険』にしても、レイプを徹底して否定的に、忌まわしいこととして描いている。

 それは同人誌で出している18禁小説『チャリス・イン・ハザード』でも同じだ。ヒロインのチャリスに性的虐待を加えようとする者たちは、徹底して悪人として描いており、決して彼らの言い分を肯定しない。チャリスは頻繁に危機に陥るものの、決して悪人にレイプされることはなく、最後は必ず悪に勝利する。

 チャリスをいたぶる方法にしても、現実にはまず実行不可能な手段(視床下部を侵してバソプレシンの分泌を阻害する細菌とか、超純水の過冷却を利用して瞬間凍結とか)を選んでいる。万が一にも、僕の小説に影響されて、まねをしようと思うバカが現われては困るからだ。

『チャリス』はエロ小説である。しかし、僕は誇りを持って書いている。自分で言うのもなんだが「いい話」だと思う。そして、『チャリス』を読んで影響を受け、現実の少女に虐待を加える読者など一人もいるはずがないと、自信を持って断言する。

 レイプ以外の犯罪に関する基準は、もう少しゆるい。たとえば短編「屋上にいるもの」や「地獄はここに」では、連続殺人者が逮捕されないまま終わる。もっとも、これはホラーの定石として許容範囲内だと思うし、どちらも犯人の正体や動機や犯行手段が現実にはまずありえないものなので、模倣されることはないと思う。

 誤解しないでいただきたい。僕は「完全な遊戯」を規制しろとは言わない。けしからん小説だし、不快には思うが、規制すべきではない。むしろ、この国の中で、こうした小説が出版される自由が保証されていることを評価したい。

「レイプを肯定的に描かない」というのは、僕個人の規範にすぎない。作家によって倫理観は違う。もっと潔癖な人もいるだろうし、逆に暴力や犯罪や反社会的行為をもっと肯定的に描いている作家も多い。僕は「完全な遊戯」のような作品は書かないが、その基準を他の作家に押しつけたくない。

「完全な遊戯」にしても、若い頃の石原氏が書きたいと思ったのなら、そしてそれを読みたい人間がいるなら、出版の自由は保証されるべきだ、と僕は思う。

 同様に石原氏も、自分以外の作者が(石原氏の目から見て不健全な)創作物を発表する自由を認めてもらわねば困るのである。

 ちなみに、僕が最近見て感心したのは、こういう動画。

 さすが世界の偉人たちはいいことを言っている。マルクスやニーメラーやハイネの言葉は有名だし、エリカ・ジョングやJ・S・ミルの言葉にも共感するが、僕が最も気に入ったのはノーム・チョムスキーの言葉だ。

「ヘドが出るような

 思想に対しても

 表現の自由

 保証されなければ

 本物の自由とは言えない」

 その通りだ。

表現の自由を守る」とは、「自分にとっての表現の自由」だけでなく「敵にとっての表現の自由」をも守ることを意味している。そうでなくてはフェアではない。

 もしあなたが、自分にとって不快な思想を社会から排除することに賛成したなら、いずれあなた自身も排除の対象となる。なぜなら、どんなに健全に見える考えでも、誰かから見たら「ヘドが出るような思想」なのだから。

 無論、その「ヘドが出るような思想」を批判する自由や、「ヘドが出るような思想」を聞きたくない自由もまた、保証されなくてはならないのだが。