なぜ人は生命のない機械にまで感情移入するのか

 ジェイムズ・イングリスの「夜のオデッセイ」という短編がある。太陽系外に送り出された無人探査機ASOV(エイソヴ)の、数百億年にわたる壮大な放浪の旅を描いた物語だ。  ASOVは知能や意識を持つものの、人間のように考えたり喋ったりするわけではない。自分に与えられた使命を黙々と果たすのみ。長い時が流れ、星々は燃え尽き、地球はとっくに滅びているはずなのに、太陽系が存在する方角に向けて律儀に観測データを送信し続ける。  この物語には人間はまったく出てこない。異星人さえ出てこない。にもかかわらず、感動的なのだ。 「小説は人間を描くもの」と思っている人がいるかもしれない。それは間違いだ。人間が出てこなくても、いや生物さえ出てこなくても、素晴らしい物語は書けるということを、「夜のオデッセイ」は教えてくれる。  小惑星探査機「はやぶさ」が6月13日に帰ってくる。  といっても、「おめでとう」と手放しで祝えない。採取したサンプルが入っている(と思われる)カプセルを放出した後、「はやぶさ」自身は大気圏に再突入して燃えつきる予定だからだ。残酷だが、冷たい方程式は変えられない。それが「はやぶさ」の最後の使命であり、運命なのだ。 「はやぶさ」の7年に及ぶ苦難に満ちた旅路については、すでにあちこちで紹介され、多くの人が語っているので、詳しく繰り返さない。初の小惑星への着陸という快挙の裏で、多くのトラブルが続発。絶望的な状況からの奇跡の復活。技術者たちの努力と工夫。「こんなこともあろうかと」という裏技によるピンチからの逆転。満身創痍での帰還。そして待ち受ける最期……あらゆるものがドラマチックだ。  だから多くのファンが「はやぶさ」を応援し、その帰還を待っている。  ニコ動では3年も前から、「はやぶさ」を応援するMADが多数アップされている。勇壮なものやかっこいいもの(あの真田さんが出てくるやつとか、『プラネテス』のOPに合わせたやつとか)もあるけど、やはり泣けるものが多い。僕の大好きな歌に合わせてくれた「小さな宇宙船」、MMDによる大作ドラマ「イトカワをねらえ!」、ふざけたサムネで、まさか最後に泣かされるとは思わなかった「とある宇宙の無反動砲」などなど……。  こちらは初音ミクによるオリジナル曲を、ニコ動の歌い手たちが合唱した応援歌。最初から燃える! そして泣ける!  こちらも名曲。「荷物の中には何も/入ってないかもしれない」とか「この荷物を下ろしたら/僕の身体は風になる」というくだりで、もう涙がボロボロ。  4月15日、JAXAのサイトで、「はやぶさ」のプロジェクトマネージャ・川口淳一郎氏が、こんな文章を発表している。 「はやぶさ」、そうまでして君は。 イオンエンジンによる長期の軌道制御が終了した3月末、君はどうしてそんなにまで、とふたたび思った。けれど、その時、「はやぶさ」の覚悟が何であり、何を望んでいるのかが、わかった気がした。たまごを受け取って孵(かえ)してあげること。それをしなくてはならない。 (中略) この6月、「はやぶさ」自身が託したいことをやりとげられるよう運用すること、彼が託すことをかなえてやることが、彼自身にとって最良な道なのだと、ようやく悟れたと思う。  センチメンタルすぎる、と嘲笑う人もいるかもしれない。ただの機械に「覚悟」や「望み」などあるはずがないと。  そんなことは分かっている。 「はやぶさ」はただの金属のかたまりだ。生命を持たない。意識もない。人の形すらしていない。  それでも僕らは、その「ただの金属のかたまり」に感情移入してしまうのを抑えられない。涙が出るのを止められない。心から「お帰り」「よくやった」と言ってやりたい。 「はやぶさ」に心がなくても、僕たちのこの想いは偽りではない。  小説にたとえてみれば分かる。 「はやぶさ」が「ただの金属のかたまり」にすぎないように、小説は「ただの紙に印刷されたインクのしみ」(もしくは「モニターに表示されたドットの列」)にすぎない。本と呼ばれる紙の束には、どこにも頭脳は存在しない。つまり本は意識も心も持たない。キャラクターに心があるように見えるのは錯覚だ。紙の上にしか存在しないものに心があるはずがない。  にもかかわらず、読者はキャラクターに感情移入する。紙の上のインクのしみにすぎない彼らを、僕たちは生きた人間と同じように考える。彼らが活き活きと動き回っていると感じる。彼らの魅力に萌え、時として本物の人間と同じように愛する。彼らの行動を応援し、彼らの苦悩にともに胸を痛め、悲しい運命に泣き、幸福な結末に喜ぶ。  物語を読んでいる間――いや、読み終わってもなお、僕らは確かに、彼らに生命と心があると感じている。  以前、『神は沈黙せず』の中でこんなことを書いた。  加古沢は笑い出した。「そりゃいくら何でも荒唐無稽だ! 本にものを考える力があるって言うんですか?」 「本そのものにはないよ。その本をめくる人間――サールのような人間が必要だからね。でも、その本と読者をひっくるめたシステム全体は、読者とは別の人格を形成するはずだ」 はやぶさ」とは「物語」なのだ、と僕は思う。  彼女(JAXAの公式では男性らしいが、ニコ動では女の子扱いされている)の苦難に満ちた旅路そのものがドラマなのだ。実体としての「はやぶさ」自身に心はなくても、その物語と、それを読む人の心が一体となって、彼女に人格を与える。  小説のキャラクターが実在しなくても、僕らは彼らに心があると感じ、実在する人間と同じように考える。それと同じように、僕らは「はやぶさ」を心ある存在であるように感じる。  小説のキャラクターが「生きている」のと同じ意味で、「はやぶさ」も生きている。 「はやぶさ」が帰還する日、僕も含めて、日本中の何万という人が泣くことだろう。