石原慎太郎『スパルタ教育』より

 12月6日(月)、中野ZERO小ホールで開かれた「『非実在青少年規制』改メ『非実在犯罪規制』へ、都条例改正案の問題点は払拭されたのか?」というイベントに出席してきた。

 たいして宣伝をしたわけでもないのに、開場前から中野ZEROの前は長蛇の列。540人入れるホールは満席。急遽、入れない人は隣りの会議室やロビーにてモニターで視聴していただくことになった。

 結局、会場に入れた人は約850人。入れずに帰った人も含めると、約1500人が来られたそうである。ありがとうございます。

 また、ニコ動の生中継の視聴者は7万人を超えたそうだ。この問題への関心の深さがうかがえる。

 イベントの内容については、すでに多くの方が日記やツィッターで紹介されているが、ここであらためて、僕が紹介した石原慎太郎『スパルタ教育』(光文社・1969年)という本について紹介したい。なお、この本は原田実さんからお借りしたもの。原田さん、ありがとうございます。

 1969年に出版されたこの本、裏表紙の推薦文は三島由紀夫(この翌年、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地にて割腹自殺する)。当時、大ベストセラーになり、多くの家庭にこの本が置かれていた。



 ご覧の通り、表紙からして「非実在青少年」のヌードである(笑)。85ページの「母親は、子どものオチンチンの成長を讃えよ」というイラストも強烈だ。植木不等式氏も『トンデモ本の世界R』(太田出版)で「実を言うと、、一番オソロしかったのは、このページである」「私と同世代の皆さんで、このページを深く記憶している人、結構いるんじゃないかな」と書いている。



 内容はというと、強い子供に育てるための100ヶ条が書かれている。「12 子どもをなぐることを恐れるな」というのは本のタイトルからして当然としても、

「34 いじめっ子に育てよ」

「39 子どもに酒を禁じるな」

「60 子どもに、戦争は悪いことだと教えるな」

「64 おじぎのしかたを教えるな」

「75 よその子にケガをさせても、親があやまりにいくな」

「81 先生を敬わせるな」

 などなど、今読んでもかなり過激で、反社会的な提言が多い。その過激なところが受けたのだろうと思う。今、PTAの前で、これと同じことを言えるんですかねえ、石原さん。

 また、「50 友だちが一人もいないことをほめてやれ」「54 子どもが夢中になっているときに、就寝を強制するな」「55 子どもの部屋は、足の踏み場がなくても整理するな」などというのは、現代のオタクのことを書いているようにも読めてしまって、ちょっと微笑ましい。

 ちなみに100項目は「父親は夭折することが理想である」というもの。子供が強くなるためには父親は早く死ななければならないと説いている。石原さん、これ書いてから41年経ってもまだ生きてますけどね(笑)。

 さて、僕が会場で読み上げたのは、次の3項目である。

> 23 ヌード画を隠すな

> わたくしの家庭では、妻や、母親は反対するが、わたくしは子どもたちの前でヌード写真の氾濫した雑誌を隠さぬことにしている。

>(中略)しょせん子どもたちは、いつかの時点でナマの裸を知り、裸の肉体の交渉がなんであるかを知らなくてはならない。それを不自然に隠すことのほうがどのように悪い想像力を育て、悪い衝動を子どもたちのなかに培うかわからない。

> わたくしが子どものころ、父親の書斎に当時珍しい世界の裸体画の美術全集があった。意識してか、あるいは不注意でか、家のものも、わたくしたちにその美術書を隠さなかった。わたくしはいつも隠れて、美術全集を書だなから引き出しては開き、その裸体に見入った。

> 現今の子どもは労せずしてそれができるが、いずれにしても幼児のときに見た裸体画の記憶は、子どもに決して不健康ではない。さまざまな想像と情操を育む。

(64−65ページ)

> 25 本を、読んでよいものとわるいものに分けるな

> 活字というものは、そこに書かれた事物以外の想像力というものを人間に培ってくれる力を持っている。だから子どもがどんな本を読んでいようと、親は気にする必要はない。

(中略)

> 確かに、その人間の生涯的な事業のきっかけが、なににあるかを知るものは神のみである。それゆえにも、人間の想像をこえた啓示のきっかけを埋蔵している本を、親がそのわずかな人生経験で、いい本、悪い本と分けて与えるのは、人間として僭越というものではないか。

> 想像力というものは、現実にないものを考える力であって、そうした作業が、いったい現実にどんなささやかなものを触媒として行なわれるかは、だれにも想像がつかない。であるがゆえに、人間の想像力を培う糧である読書を、なにをもってよしとし、なにをもって悪とするかほど、根拠のないものはない。そのよしあしに、親が陳腐で通俗的な道徳をもちこむほど、子どもの大きな将来性をスポイルすることはない。

(68−69ページ)

> 46 子どもの不良性の芽をつむな

> 子どもに不良性があるということと、子どもが不良であるということとは、まったく違う。それを見きわめるのが親の義務であり、子どものほんとうの理解につながる。

(中略。織田信長水戸黄門が少年時代には不良だったという例を挙げて)

> 子どもの不良性は、単に、それが反道徳ということで終わることもあるが、しかし同時に道徳をこえた既成の秩序、既成の価値への反逆をはぐくみ、従来の文明文化の要素をくつがえして変える大きな仕事を、将来子どもがするための素地にもなる。

(中略)

> 子どもの不良性を、親がけしかけて育てる必要はないが、しかし、単にそれらを既成の道徳を踏まえて恐れ、根元からその芽をつみ取ることは、子どもだけではなく、人間の社会における大きな可能性を、愚かに殺すことでしかない。

(114−115ページ)

 いやー、いいこと言ってるじゃないですか、石原さん!

 無論、石原氏はこの文章を書く際、エロマンガを念頭に置いてはいなかっただろうが、これはマンガにもそのまま置き換えられることは言うまでもあるまい。

 僕が今回の改正案でいちばん腹が立ったのは、このくだりである。

>二 漫画、アニメーションその他の画像(実写を除く。)で、刑罰法規に触れる性交若しくは性交類似行為又は婚姻を禁止されている近親者間における性交若しくは性交類似行為を、不当に賛美し又は誇張するように、描写し又は表現することにより、青少年の性に関する健全な判断能力の形成を妨げ、青少年の健全な成長を阻害するおそれがあるもの

「漫画、アニメーションその他の画像(実写を除く。)」と、露骨にマンガとアニメとゲームをターゲットにしてきている。小説と実写映画は対象外だというのだ。

 言うまでもないことだが、近親相姦や強姦や未成年とのセックスを描いた小説なんて山ほどある。当然、その映画化作品もある。前に紹介した石原慎太郎「完全な遊戯」は女性を拉致監禁して強姦したうえに殺してしまうという話だったし、「処刑の部屋」にも薬を使って女性を眠らせ、強姦するシーンがある。

「処刑の部屋」は昭和31年に映画化されているが、当時、それを模倣した犯罪も起きたそうである。

 少年犯罪データベース

http://kangaeru.s59.xrea.com/31.htm

 しかし、この修正案を作った人間の考えでは、それらは小説や実写映画だからかまわないというのだ。悪いのはマンガとアニメとゲームなのだと。

 何という御都合主義だろうか。これが石原氏の言う「陳腐で通俗的な道徳」以外の何だというのだ。

 少し僕の話をしよう。

 石原氏がそうであったように、僕の父はよく週刊誌や中間小説誌を買ってきては、家の中に置きっぱなしにしていた。僕は小学5年ぐらいからそれを読んでいた。中にはヌード写真はもちろんのこと、宇野鴻一郎、梶山季之山田風太郎などの、エロいシーンがある小説もいっぱい載っていた。

 いやー、エロかったよ、山田風太郎は! 『天の川を斬る(銀河忍法帖)』は小学5〜6年で、『忍法創世記』は中1時代に、雑誌連載でリアルタイムで読んでましたから。『忍法創世記』なんて、いきなり柳生と伊賀の男3人女3人によるセックス対決からはじまるんですぜ。女をイかせたあと、まだその息が荒いうちに、男が再びチンチンを立たせることができたら勝ち、とかいうそんなルールで(笑)。

 あと、小学6年の時に読んだ短編「呂の忍法帖」ってのがものすごくてね。『ムカデ人間』という映画の設定を聞いた時には、「それ、山田風太郎がとっくにやってますから」と思ったもんである。こっちの方が人数多いし、輪になるし。

 しかし、僕がそういう小説を読んでいるのを、父にとがめられたことは一度もない。

 そうした雑誌の中に、筒井康隆小松左京星新一といった当時の有名なSF作家の作品がよく載っていた。特に11歳の時に読んだ筒井氏の「アフリカの爆弾」(初出時の題は「アフリカ・ ミサイル道中記」)は僕にとっての人生の転回点になった作品だった。「こんな面白い小説を書く大人がいるんだ!」と、子供心に感激したものである。

 僕が小説の楽しさに目覚めたのは、筒井康隆氏や山田風太郎氏の“不健全”な作品を読んだからである。PTAや教育者や評論家が薦めるような健全な世界の名作しか読んでいなかったら、僕は決して小説家にならなかったはずだ。

 それもこれも、父がヌード写真やエロ小説の載っている雑誌を家の中に置いていて、僕がそれを読むのを黙認してくれたおかげである。

 現代のマンガ家の中にも、若い頃にエロいマンガの載っている雑誌を読んでいて、それがきっかけでマンガの魅力に目覚め、マンガ家を志した者も多いのではなかろうか。

 ロリにしてもBLにしても、今や単なる「反道徳」を超え、ひとつの産業を形成している。石原氏が言うところの「従来の文明文化の要素をくつがえして変える大きな仕事」を成し遂げているのだ。

 だから僕は、「子どもの不良性を、親がけしかけて育てる必要はないが、しかし、単にそれらを既成の道徳を踏まえて恐れ、根元からその芽をつみ取ることは、子どもだけではなく、人間の社会における大きな可能性を、愚かに殺すことでしかない」という主張に賛成するのである。

 誤解をまねかないようにつけ加えておくと、僕は自分の娘にエロすぎるものは故意に与えていない。ヌードや、ちょっとエッチという程度までだ。「親がけしかけて育てる必要はない」からである。そういうものに興味が出てきたら、自分で探して読むだろうし、それが子供の自然な成長だと思っている。

 もっとも、今のところ娘はエロにまったく興味を示さない。伏見つかさ『俺の妹がこんなに可愛いはずがない』(電撃文庫)を全巻読んでいて、ヒロインの桐乃と同じく中学二年なのだが、桐乃のようにエロゲをやりたいとは思わないらしい。何にしても、僕が読んでいた山田風太郎に比べればはるかに健全だ。

 娘があまりに健全に育ちすぎてるもんで、「僕ら中学の頃って、もっとエロに興味なかった?」と、妻といっしょに心配しているぐらいである。いや、マジで。