『突然、僕は殺人犯にされた』

スマイリー・キクチ『突然、僕は殺人犯にされた』(竹書房

 ネット上で殺人犯の汚名を着せられた、お笑いタレントのスマイリー・キクチこと菊池聡。その10年に及ぶ苦闘の記録である。

 僕もネット上で中傷されたことがあるが、菊池氏の受けた苦しみは僕のそれとは比べものにならない。はるかに重く、恐ろしい。

 1999年、菊池氏は所属事務所のHPの掲示板に誹謗中傷が載っていることを知らされる。

「事実無根を証明しろ、強姦の共犯者、スマイリー鬼畜、氏ね」

「ネタにしたんだろ??犯罪者に人権はない、人殺しは即刻死刑せよ」

「レイプした過去を思い出せ、白状して楽になれよ」

 1988年、東京都足立区で起きた女子高生暴行殺害事件。その犯人の一人が菊池氏だというデマが2ちゃんねるに書きこまれ、それを信じた者たちが掲示板を荒らしに来たのだ。

 菊池氏にはまったく身に覚えがない。足立区出身で犯人と同世代という以外、事件とは何の接点もないのだ。

 ホームページで噂を否定するが、今度は「貴様が犯人じゃないという証拠をだせ」と書きこまれる。たまりかねて2ちゃんねるに削除を要請するが、「事実無根を証明しなければ削除に応じません」と断られる。

 ひどい話である。殺人をやってないって、どうやって証明すりゃあいいの? しかもネット上で、言葉だけで? そんなの無理だぞ。

 こういうことを言う奴は、自分が同じ立場に立たされたら、という想像ができないのだろうな。

 さらには、「ライヴで事件をネタにしているのを見た」とか、「『ボキャブラ天国』で殺人事件をネタにした」などと、ありもしないことが2ちゃんねるに次々と書きこまれ、それをまた信じて憤る者が大勢現われる。

 何の証拠もないのに、2ちゃんねるに書いてあるというだけで「事実だ」と信じてしまう愚かしさ。そして恐ろしさ。

 

 一時下火になっていた噂が、2006年、再燃する。出演した番組のスタッフに「殺人事件の犯人をテレビに出すな」という抗議の電話がかかってくるようになったのだ。それも一本や二本ではない。

 2008年、菊池氏はブログを開設するが、ここにも中傷のコメントが殺到する。

 再燃した理由は、テレビにもよく登場する、「元警視庁刑事」を名乗る人物(あの人だな)が、2005年に出版した本にあった。その中で足立区の事件が扱われ、「犯人の一人は出所後、お笑いコンビを組み、芸能界にデビューしたという」と書かれていたのだ。おそらくネット上で流れていた噂を書いただけなのだろうが、「元警視庁刑事」という肩書きの人物が書いたことで、一挙に信憑性を増したのだ。

(本書の中では、この「元警視庁刑事」の正体も、警察関係者の口から説明されている。もちろん中傷にならない範囲でだが)

 最初のうち、警察の腰は重い。菊池氏は窮状を訴えるが理解してもらえず、何度も門前払いを食わされる。しかし、親身になってくれるOという警部補と知り合えたことで、一挙に事態が進展する。O警部補は足立区の事件の記録を調べ、被疑者にもその仲間にも「菊池」という人物がいないことも証明してくれた。

 警察の手によってアドレスをたどられ、次々に摘発される犯人たち。合計18人(これでも氷山の一角だろう)。その正体が明らかになってゆくくだりが、驚きと戦慄の連続。

 僕はこういうことをやるのは何となく若者のようなイメージがあったのだが、意外にも上は46歳から下は17歳までと幅広く、住んでいる地域も性別もバラバラ。大手企業に勤めている者や、年頃の娘がいる父親もいたという。

 その全員が菊池氏と個人的な面識がなかった。ネット上の根拠のない噂だけを元に、菊池氏に対する憎悪を燃え上がらせていたのだ。

 Nという男は、0警部補には「二度としません」と反省したような態度を見せておきながら、その日のうちに「ヤロー警察に被害届け出したな」「犯罪犯しといてお回りに通報入れるなんてどこまでクズなんだ」などと2ちゃんねるに書きこみ、捜査関係者を絶句させる。

「チンカス社会のゴミ菊池」などと、下品きわまる罵倒の言葉をブログに書き並べていた人物は、なんと23歳の女性、それも妊婦だった。

 外資系の自動車会社のドメインから書きこんでいたのは、その会社のセキュリティ部門の責任者だった。ドメインに企業名が出ることに気がつかず、職場のパソコンで仕事中に書きこんでいたのだ。これでセキュリティ責任者……。

 あきれた。人間はここまでバカになれるものなのか。

 愚かなのは犯人たちだけではない。警察官や弁護士や検事が、インターネットについてあまりにも疎いことにも驚かされる。読んでいて、あまりの無知と危機意識のなさに唖然となり、歯がゆくなる。

 たとえば菊池氏が2008年に警視庁のハイテク犯罪対策総合センターに相談すると、「削除依頼をしてはいかがですか」と言われる。削除依頼は9年も前にやったのだが。

 あげくに「あなたが犯人だなんて誰も信じてませんよ。どうせ遊びでやってるんじゃないですか」などとお気楽なことを言う。大勢の人間から殺人者呼ばわりされ、「氏ね」などと書かれることがどれほどの恐怖か、理解できないらしい。遊びなら中傷や脅迫を書いても許されると思っているのか。

 ある警察官は、「殺されたら捜査しますよ」と言う。菊池氏が誰かに殺されるまで事件にならないから捜査できないというのだ。

>「その時は一一〇番に電話してください」

>「部屋にいて突然、変な奴が襲ってきたら、そいつに警察に電話するので待ってください、って言うんですか」

>「そうです」

 シュールな会話である。コントとしか思えないのだけど、菊池氏にとっては笑い事ではない。

 ある弁護士は、中傷が書きこまれた画面をプリントアウトしたものを見せられ、「このダブルダブル……て何?」と訊く。URLというものを知らなかったのだ。

 ある刑事は、「Yahoo!知恵袋」のプリントアウトを見せられ、「これは『2ちゃんねる』ですか?」と訊ねる。「Yahoo!」という文字が出ているのに。

 いちばんすごいのはIという検事の対応。被害届けや告訴状に目を通しもせず、菊池氏がインターネットをやらなければいいとか、足立区出身と公表したのが問題だとか、まるで被害者である菊池氏の方に非があったかのようにのたまう。

 あげくに、こんなすごいことを言う。

>「あの〜、菊池さんは、インターネットをやらなければ問題は起きないと思います」

> この言葉を聞き、I検事にカマをかけた。

>「そうですか、じゃあ捕まった全員の名前と生年月日と会社と、ブログに送ってきたコメントは書き込んでもいいんですか?」

>「あっ、う〜ん、『2ちゃんねる』はダメです、まぁ、ブログなら」

> このI検事の言葉を聞いたY事務官が、両目と口を大きく開けあわてて振り返った。

 ブログなら犯人の個人情報を載せてもいいと思っているのだ。どこまで非常識なのか。

 さらには、犯人の一人が謝罪したいと言っているので「菊池さんの電話番号を伝えて連絡させます」などと言い出す。犯人に被害者の連絡先を教えようとする検事! こわっ!

 ここまで無能な検事が実在するというのは、驚きを通り越して絶望的な気分になる。

 事件は新聞でも報道されるが、著者に言わせれば事実誤認だらけの「しっちゃっかめっちゃか」な記事で、その誤報がまたテレビ番組や別の新聞によって拡大してゆく。ネット同様、テレビや新聞もうかつに信用できない。

 本書を読んで特に痛感したことが二つ。

 ひとつは、犯人たちのあまりの非常識と無知。2ちゃんねるに書かれた情報を裏を取らずに信じこむのもどうかしているが、ネットではどんな中傷や脅迫を書いても許される、匿名だから捕まらないと無邪気に信じていたらしい。ネットに脅迫を書きこんだ人物が逮捕されたというニュースは、しょっちゅう流れているというのに。

 もうひとつは警察や司法の体制の不備。インターネットという新しい文明の利器への対応が、ひどく遅れている。ネット上での中傷や脅迫が、紙の怪文書や脅迫状と同じもの(影響力はそれ以上だろうが)であることを認識できておらず、「インターネットを見なければいい」などとのんきなことを言う警察官や弁護士がいる。被害者自身が見なくても、被害は拡大するというのに。

 菊池氏の事件はいちおうの解決は見るものの、満足のいく結果とはとうてい言いがたい。金持ちなら民事訴訟に持ちこんで犯人たちから賠償金も取れるのだろうが、弁護士費用も払えない者にはそれもできず、泣き寝入りに近い状態である。

 こんなことが許されてはならない。

 ネット上での中傷や脅迫は立派な犯罪だという事実を、もっと世間に浸透させる必要があるだろう。「言論の自由」の中には、「無実の人間を恐怖に陥れていい自由」は含まれない。

 ちなみにアマゾンで調べてみたら、レビュアーの中にこんなことを書いている奴がいて唖然となった。

>色々調べてみて思ったのだがこの事件に関しては炎上のきっかけとなる書籍もあり事件の関係上、書き込みをした者=悪で書き込みをされた者=善という単純な二項対立でとらえて議論することはかなり無理がある上この事件でネット社会における日本人の精神の脆弱性云々などという話は偏見や恣意性に基づく飛躍甚だしく論外であるとさえ思われる。実際のところ書き込みをした者は社会的に問題があるような方々ではなくごくごく普通の主婦であったり女子高生であったり会社員であったりしたようでそういったごく普通の方々がむきになって書き込みをする原因となった書物や筆者のテレビでのおよそネタを通り越した凶暴な発言などに思いをはせ、その問題の所在について考える必要があるのかもしれない。

 犯人を擁護するなあ! ごくごく普通の主婦や女子高生や会社員ならやってもいいってわけがあるか、バカ者が!