山本弘をめぐるデマ(4)

 もちろん、こうしたデマの中には、悪意による捏造も多いだろう。「山本弘はと学会の利益を独占している」とか「トンデモ本大賞の壇上で『新しい歴史教科書』を罵った」なんてのは、明らかに故意に創作されたデマだ。

 その一方、書いた本人も「山本弘はこんなことを書いていた」「あの本にはこう書いてあった」と本気で信じている例も多いようだ。偽記憶症候群(False Memory Syndrome)というやつである。

 偽記憶症候群については、すでに本で何度も取り上げている。これは精神病による妄想とはまったく違う。偽記憶は健康な人間にもしょっちゅう起きていることなのだ。

 あらたに書くのは面倒なんで(笑)、『百鬼夜翔』シリーズの一編、「茜色の空の記憶」から引用させてもらう。

 千絵は微笑んだ。「暗示なんてだいそれたもんじゃない。些細なきっかけで記憶なんて簡単に変わってしまうものなのよ。見たものの大きさ、色、美しさ、時間、場所……何もかもね。人間は常に自分の記憶を書き換えながら生きていると言ってもいいわね」

「でもそれって、日常生活の中のちょっとした思い違いってやつでしょ? もっと強烈な体験だったら、それこそ記憶に強く焼きついて変化しないんじゃないですか?」

「それがそうでもないのよ。一九八六年にスペースシャトルのチャレンジャー号が事故を起こした時、ある心理学者がこんな実験をやったの。事故の翌日、学生たちに『どのように事故のニュースを知りましたか?』というアンケートを出して、その答えを回収したの。それから二年半後、その学者は同じ学生たちに同じ質問をした。するとどうだったと思う? 最初のアンケートの結果と同じものはひとつもなくて、三分の一以上がとても不正確だったの。

 ある学生は、最初のアンケートでは『授業中に何人かの学生が入ってきて、事故について話しはじめた』と書いていたのに、二年半後に同じ質問をされると、『寮の自分の部屋でルームメイトといっしょにテレビを見ていたらニュース速報が流れた』と書いたの。本人は二年半前に自分が書いたアンケートを見せられて、とても驚いたそうよ。確かに自分の筆跡なのに、そんな記憶がまったくない、自分が覚えているのはルームメイトとテレビを見ていたことだって」

 ちなみに、このチャレンジャー号事故についてのエピソードは、E・F・ロフタス&K・ケッチャム『抑圧された記憶の神話』(誠信書房)から引用した。心理学者であるロフタスはこう言っている。

「記憶は手を触れることのできる固形物というよりも、雲や蒸気のように、脳の中を漂うものである」

 この見解には同意せざるを得ない。僕自身、何度か偽記憶を経験しているからだ。昔見たテレビ番組の中に、確かにあったと思っていたシーンが、再放送で見たら無かったのには驚いた。

 だから、「あの本には確かこう書いてあった」と思っても、うかつにその記憶を信じてはいけないのである。

 たとえば「この作品のタイトルが知りたい!@SF板」というスレッドで、こんなのを見つけたことがある。

・日本人作家の短編集。それほど古くはないはず。ハードカバーかもしれません

・以下の三つのような話が載っていたと思います

・実験で「この宇宙は偶然出来たもので、すぐに消える」と知って焦っている男の話

・犯人を捕まえた刑事が、心の中で「殺してやろうか」と思う話

・世界が崩壊してしまったが、少年と出会った少女が希望を見出す話

 えー、1番目のは「闇が落ちる前に、もう一度」、3番目のは「審判の日」だと思うんだけど、2番目のは何ですか(笑)。そんなの、書いた覚えないぞ。

 1番目と3番目があるからまだ分かるけど、2番目だけ見せられても絶対に分からない。作者でさえ。

 これなど、間違ってはいるものの、まったく悪意は感じられない。純粋な記憶違いなのだ。しかも何十年も前の本ならともかく、『審判の日』が出たのは2004年、この発言は2009年なので、5年前の記憶なのである。たった5年で、人の記憶はここまで改竄されてしまうものなのだ。

 当然、こうした記憶の改竄は僕の作品にだけ起きるものではない。他の人の作品に関してもしょっちゅう起きている。

 僕はmixiの『SF(Science Fiction)』というコミュに入っている。その中には「こんな本知りませんか??」というトピがある。その名の通り、よく思い出せない作品について質問するというものだ。僕もちょくちょく回答している。

 それを読んでいると、人間の記憶というのは実にいいかげんで、本人に悪意がなくても、簡単に歪曲や捏造を生み出してしまうことがよく分かる。ジャック・ウィリアムスンの『ヒューマノイド』の舞台が「未来のソビエト連邦」になってる人とか、ロイド・ビッグル・Jr.の「記念碑」をなぜか「ラングリ興亡史」というタイトルで記憶している人とか。

 同じような趣旨の『図書館探偵☆LD』というコミュにも入っているのだが、こっちも面白い。質問者の曖昧な記憶を元に、「この人が言っているのはどの作品のことなんだろう?」と頭をひねるのが、クイズみたいで楽しい。

 だから、記憶が違っていること自体は、ちっとも悪いことではない。それは誰にでもあることなのだから。

 しかし、その間違った記憶を元に誰かを批判するのは悪いことである。

 なぜなら、それは表面上、悪意による中傷とまったく区別がつかないからだ。

 批判を書くなとは言わない。僕の作品が嫌いなら、いくらでも批判していただいてけっこう。言論の自由というものである。

 しかし、その前にソースを確認するぐらいの手間はかけていただきたい。本当に僕の本にそんなことが書いてあるのかを。

 それはあなたの脳が捏造した偽記憶ではないのか。

 これは、山本弘批判を書こうと思っているあなたのためを思って言っている。間違ったことを書いて笑いものになるのは、僕ではなくあなたの方なのだから。