多重カギカッコや擬音をめぐる話
あっ、僕も書こうと思ってたら、友野に先越されちゃった。
多重カギ括弧は20年以上前から存在していた〜友野詳氏の回想録〜
きっかけはこういうのだった。
ラノベでカギ括弧を重ねて使うのはズルなのか技法なのか
あのー、僕使ってますけど、何か?
亜季は蓮也の方を振り返った。
「もしかして、蓮也くんも?」
「うん……」
「隙間に入れるの?」
「「「「「入れない!」」」」」
環夜以外の五人がいっせいにツッコんだ。
――『妖魔夜行 闇への第一歩』
この手法、複数の人間が同時に同じ言葉を発するのを表現するのに便利なので、僕もたまに使うことがある。
友野詳によると、誰が発明したのかは分からないけど、〈コクーンワールド〉の頃から使っているという。もう20年以上前だ。
他にも僕が主にライトノベルから借用した手法はいくつもある。
たとえば、会話の途中で、「?」とか「!」とか「…………」とか、台詞を書かずに疑問符のみ、感嘆符のみ、あるいは三点リーダのみを書く手法。これ、非ラノベでも使うけど、やっぱりラノベでよく使われる印象がある。 ただ、どれぐらい前からあるのかは、僕もよく分からない。
たとえば、いちいち“彼は息を呑んだ”とか書くより、「!」と書くだけで、息を呑んだことが的確に表現できる。また、そのキャラが言葉は発していないけど疑問を感じているのが表情に出ている、という場合は「?」。あるいは会話の途中でちょっとだけ沈黙した場合とかは「…………」が有効。
「うん。実は最初からずっともやもやしてるところがあるんだ。それも二箇所」
「二箇所?」
「ひとつは『七地蔵島殺人事件』というタイトルそのもの」
「?」
――『僕の光輝く世界』
「だって……だって……」
亜季は顔をくしゃくしゃにして言った。
「あたし……友達、一人もいなかったんだもん!」
「…………」
――『妖魔夜行 闇への第一歩』
他にも、これもたぶんラノベ起源じゃないかと思うんだけど(間違ってたらごめん)、場面転換でもないのに、ある行の前後を一行開けるという手法もある。
「待って! 行かないで! 帰らないで! お願い!」
そう絶叫すると、彼女はふらふらと廊下に膝をつき、手をついた。額を床にこすりつけるようにして土下座し、心の中の想いを衝動的に絞り出す。
「あ、あたしとセックスしてください!!」
(うわーっ、何言ってんだ、あたしーっ!?)
亜季は自分で自分の言葉に愕然となった。
――『妖魔夜行 闇への第一歩』
この場合、「あ、あたしとセックスしてください!!」を目立たせたくて、前後を空白にしているわけである。
ちなみに、僕がこれを最初に使ったのは、『詩羽のいる街』だった。第一話の語り手、陽生の台詞。
「あの……気になってたんだけど……」
「何?」
僕はためらった。あまりにも常識はずれな考えだったからだ。だが、これまでの彼女の行動からすると、そう思えてならない。だから思いきって質問した。
「もしかして詩羽さん、お金持ってないの?」
「そうよ」彼女はあっさり認めた。「ようやく気がついた?」
「財布を忘れてきたとか、そういうんじゃなく?」
「うん。持ってない。ここ六年ばかり、紙幣にも硬貨にもまったく触ったことがない」
――『詩羽のいる街』
これは「お金持ってないの?」をどうしても目立たせたくてやった。目立たせるなら、字をゴシック体にするとか傍点振るとかいう手法もあるんじゃないかと思われるかもしれないが、それをやると、その言葉が「強い」感じがしてしまう。話者が強い口調で言っているかのような印象になるのだ。
ここは「もしかして詩羽さん、お金持ってないの?」という言葉が、さりげなく発せられたことを表現したかった。でも、読者に対しては目立たせたい。そこで迷った末、前後を一行空けることにした。
そう決心したものの、かなり心理的抵抗があった。僕は古いタイプの作家なので、「一行空けるのは場面転換や時間経過を表現する場合か、手紙などの文面を挿入する場合」「必要もなしに改行して行数を稼ぐのはアンフェア」という固定観念から、なかなか脱却できなかったのだ。
しかし、実際にやってみると、ここはこの手法を使ってやはり正解だったと思える。
あと、そこだけ活字を大きくするという手法もある。ただ、これはギャグになっちゃうんで、あまりシリアスな作品では使いたくない。先の「あ、あたしとセックスしてください!!」も、笑える台詞ではあるんだけど、作品全体としてギャグではないので、迷った末、字を大きくするのは避けた。
逆に、ギャグであれば字を大きくするのも厭わない。『ギャラクシー・トリッパー美葉』や『地球最強姉妹キャンディ』では何度も使ったな。
ちなみに、活字を大きくすることを最初に思いついたのも誰かは不明だけど、僕が最初に見たのは1970年代、横田順彌さんの小説だったと思う。原稿枚数を稼ごうとして、登場人物が台詞を勝手に変なところで改行したり、字をどんどん大きくしてゆくという、メタなギャグが秀逸だった。
擬音の多用というも、しばしば槍玉に挙げられる話題である。
僕も戦闘シーンで擬音を多用したことがある。
ピン、ポロロロン。ポロロン、ロン。
突然、戦場にはまったく場ちがいな、のどかな音楽がひびいた。知絵はそれが携帯電話の着メロだと気がついた。頭がぼうっとしていたのだろう、思わず携帯電話を開き、受信ボタンを押してしまっていた。
「はい、竜崎です――ああ、ママ」
『元気にしてる?』七絵さんの声がした『あのね、今日はクフ王のピラミッドを見物したのよ。それから近くの町でショッピングしたんだけど、とってもいいじゅうたんを見つけちゃって』
バリバリバリ!
バンバン!
『あらあら、なんだかうるさいわねえ』
「え、ええ。夕姫がテレビでアクション映画見てるの」知絵はどうにか、平静をよそおった声を出せた。「夕姫ー、ちょっとボリューム小さくしてー」
バリバリ!
バリバリバリ!
バンバンバン!
「ごめんなさい、聞こえてないみたい」
『あらまあ。そう言えば夕姫ちゃん、そういう映画が好きだったわねえ』
「ええそう。もう夢中になっちゃって……」
バン! バン!
バリバリバリバリ!
『でも、あんまり銃で殺し合いするような映画、こどもが見ちゃいけないわよ。教育上、良くありませんからね』
「ええ、気をつけるわ」
――『C&Y地球最強姉妹キャンディ 夏休みは戦争へ行こう』
本物の戦場のど真ん中に、お母さんから電話がかかってくる。周囲では銃声がひっきりなしにしてるけど、そんなことを知らない電話の向こうのお母さんは、映画の効果音だと思いこむ……とまあ、そういうギャグなわけ。
これは擬音を多用しなくちゃどうしようもない。つーか、読み直してみると、もっとたくさん使ったほうが良かったんじゃないかと思うぐらい。
『キャンディ』は子供向けであることを意識して、擬音も他の小説よりは多めに使ってる。これも場合によりけりで、普通の小説の、それもシリアスな戦闘シーンで、擬音を濫用しちゃいかんと思う。ちゃんと描写しなくちゃいけない。
いや、いるんだよ。戦闘シーンを「バリバリバリ」とか「ギュンギュンギュン」とかだけで済ませちゃう人が。
それは効果じゃなく、単なる手抜きだからね?
あっ、もうひとつ気がついた。この「手抜きだからね?」というの。
普通、疑問符って、発声者が何か疑問を抱いているシーンにしかつけちゃいけないことになってる。「何?」とか「まさか、そんなことが……?」とか。
ところが最近の小説、特にラノベだと、疑問文じゃない文章にも疑問符をつけることがよくある。特に相手に確認を求めてる場合。だから僕も、気がついたらよく使ってる。
亜紀子は一騎に顔を近づけ、にこやかな笑みで言った。
「獣姦はだめだぞ?」
――『MM9 ―invasion―』
思い出してみると、最初にこういう使い方があるのを意識したのはマンガだ。新井理恵の『X ―ペケ―』で、よく疑問文じゃない台詞に疑問符がついてたよ。
考えてみれば、そもそも日本語に感嘆符も疑問符もない。たぶん明治時代あたりの誰かが、便利だから使いはじめて、それが定着したんだろう。
最近のラノベってこんなに酷いのな……
http://sonicch.com/archives/28672619.html
これ、実は釣りである。最初に出てくるのは、「最近のラノベ」ではなく、アルフレッド・ベスターの『虎よ、虎よ!』(1956)の一シーン。つまり60年近くも前に使われた手法なのである。 これを「最近のラノベ」と思いこんでバカにする奴をバカにするというものなのだ。
2番目の画像は、野?まど『独創短編シリーズ 野?まど劇場』(電撃文庫)に収録された作品。こういう実験的手法を駆使したギャグ作品集である。これはおおいに笑った。
こういうタイポグラフィック・ノベルという形式も、昔からある。夢枕獏さんもデビュー当時、『カエルの死』というタイポグラフィ作品集を出していた。
こういうの。
http://gold-fish-press.com/archives/4972
もちろん筒井康隆氏の「上下左右」や「デマ」なども忘れてはなるまい。
あと、僕らの世代で言うと、新井素子さんのデビュー作、『奇想天外』新人賞佳作の「あたしの中の……」(1977)に衝撃を受けた。若い女の子の会話体の一人称。先例がなかったわけではないけど(ご本人は小林信彦『オヨヨ島の冒険』の影響と言っておられる)、SFで見たのは初めてだ。「高校生の女の子がこんな文体でSF書いてる!」というのがショックだったんである。
もちろん当時、古いSFファンの中には、あの文体に反発していた人もいた。たぶん他の新人賞で、頭の固い審査員だったら落とされてただろう。 新井さんを推したのは、『奇想天外』新人賞の審査員の一人、星新一氏である。まさに慧眼であろう。
で、当時としては斬新だった「新井素子風文体」だけど、今はもう当たり前。いろんな人が使ってる。神坂一さんの『スレイヤーズ!』がそうだし、僕の『ギャラクシー・トリッパー美葉』もそう。
もうひとつ、新井さんの作品で印象深いのは、長編『絶句……』(1983)。
主人公である小説家・新井素子の一人称で書かれたSFなんだけど、途中で作者・新井素子が出てきて(ややこしいな)断りを入れるくだりがある。ここでどうしても三人称のシーンを入れなくてはいけないので、許してほしいと。
同じ小説の中での一人称と三人称の混在というのは、当時としてはタブーで、決してやってはいけないこととされていた。しかし新井さんはそのタブーに挑戦したわけである。
これもね、今はもうライトノベルで、みんなごく当たり前に使ってるんだよね。『生徒会の一存』とか『異能バトルは日常系の中で』とか。
もしかしたら、今のライトノベルの読者が『絶句……』を読んだら、なぜ作者がわざわざ断りを入れるのか分からないのではないだろうか。
要するに、小説家は昔からいろんな手法を開発したり、タブーを破ったりしてきたわけである。
その中から、便利だとか優れているとか判断された手法が、他の作家に採用され、小説界に広まって、新たな「正しい日本語」となってゆく。
だから、どこかの作家が何かタブー破りをやった場合、それがいいと思えばまねすればいいし、そう思わなければまねしなければいい。それだけのこと。
あと、冒頭の鏡裕之氏の主張だけど、僕は全面否定しようとは思わない。小説を書きはじめたばかりのアマチュアで、まだ自分の文体が完成していない人に対しては、「多重カギ括弧のような手法を使うな」と言うのは正しいと思う。
だって、筒井康隆さんも夢枕獏さんも横田順彌さんも、ちゃんと普通の文章が書けるうえで、ああいう実験的手法を使ってるんだもの。
ピカソだって、最初からあんな絵を描いてたわけじゃない。初期の頃は「青の時代」とか「ばら色の時代」とか、普通の絵を描いていた。それに飽き足らなくなって実験的手法を開発したわけである。まともに絵が描けない人間がピカソのまねをしても、単にデタラメな絵になるだけだろう。
小説も同じ。まだまともな文章も書けないのに、擬音を多用したり、「!」や「?」や「…………」を濫用したり、あるいは一人称と三人称を混在させたら、ひどい代物になる。実例はネット上に多数(笑)。
ちゃんとした小説の文章が書けるようになるまで、こうした手法の使用は控えるべきだ。初心者のうちから安易にそういう手法に逃げたら、文章力が育たない。