クリプトムネジアの恐怖・2

 では、栗本氏は「午後の恐竜」を読んだことがなく、まったく偶然に同じアイデアを思いついたのだろうか?

 どうもそうではないらしい。

 というのも、「走馬灯」が収録された短編集『さらしなにっき』(ハヤカワ文庫・1994)で、作者自身がこんな解説を書いているのだ。

> こりゃまた短い。こんな短いものを書いていた時代っていうのもあったんだなあ。

> これはまた凄い発想ですね。**が最後に見る走馬灯! いったいどこからこういうアイディアを考えつくのかね、栗本は? 最近あまりこういうショートショートっぽい発想というのは思いつかないような気がするのだが。

> これも小松さんのショートショートを思わせるものもあるし、星新一さんっぽくもありますが、確かなんとなくこれに雰囲気の似た話、というよりもこれを思いついたきっかけになった話は、確か小松さん──あるいは豊田さんだったのかな──だと思うんだけど短篇で、鉄腕アトムが出てきて主人公に話しかけたと思ったらうしろにゴジラが──フィクションと現実がごっちゃになっちゃう、という話があったような気がします。あいまいな話で申し訳ないが。(後略)

 それは小松左京氏の「新趣向」ですね。豊田有恒氏の名前を出しているのは、豊田氏の短編「二次元のスタジオ」(豊田氏の虫プロ時代の体験談をフィクション化した話だが、オチは明らかに「新趣向」にインスパイアされている)の記憶がごっちゃになってるのかもしれない。

 つまり栗本氏は、「新趣向」を明らかに読んでいるのに、その記憶がかなり曖昧なのである。

 それどころか、栗本氏は自分の書いた作品の記憶すら曖昧だ。同じ短編集に収録された「ウラシマの帰還」(SFマガジン83年7月号)という短編の解説にはこうある。

> いまとなってはちと古めかしい感のある設定だな(笑)と思って読み進んでいたら、なるほどそれがオチだったのですね(笑)いやー忘れてるもんだ。

> まあ「ワープ航法」なんて概念そのものがいまや古めかしいっちゃ古めかしいですが、しかしおわりまで読むとなかなか哀切な話ではあります。確か栗本はこれによく似た話をもうひとつ書いた記憶がある。ええっと、何だったかなあ。「最後の方程式」をカンチガイしてるんだろうか。

 そう、栗本氏は11年前に自分がどんな話を書いたかすら覚えていない! まあ、あれほど多作な人だと、いちいち何を書いたかなんて記憶していられないのだろう。

 ちなみにこの「ウラシマの帰還」、亜光速宇宙船で130年間の恒星間飛行を成し遂げた宇宙飛行士が、地球に帰ってみると、彼らが出発した後でワープ航法が発見されていて、自分たちがやってきたことが無駄な努力だったことを知る……という話。これまたA・E・ヴァン・ヴォクトの「遙かなるケンタウロス」(SFマガジン60年7月号)や、久野四郎「勇者の賞品」(SFマガジン69年7月号)という先行作がある。栗本氏の世代のSFファンなら60年代に〈SFマガジン〉を読んでいたはずなので、「遙かなるケンタウロス」や「勇者の賞品」を目にしていてもおかしくはない。

 つまり栗本氏は偶然に「午後の恐竜」と同じアイデアを思いついたのではなく、「午後の恐竜」を読んでいて、それを忘れていたのではないだろうか? ただアイデアだけを漠然と覚えていて、自分が思いついたアイデアだと錯覚したのでは?

「最近あまりこういうショートショートっぽい発想というのは思いつかないような気がするのだが」というのも、自分の発想ではないことに薄々気がついていたようにも読める。

 こういう現象には精神医学の世界でちゃんと名前がある。潜在記憶=クリプトムネジア(Cryptomnesia)という。自分が読んだ本や耳にした音楽のことを忘れてしまうが、まったく頭の中から消えてしまったわけではなく、記憶の底に残っているのだ。後でその記憶がよみがえった時に、それがどこから来たのか分からない。自分の発想であるかのように勘違いしたりする。

 クリプトムネジアが注目を集めたのは、いわゆる「前世の記憶」に関してだ。

 1969年、ジェーン・エヴァンスという30歳の主婦が、6つもの前世を思い出したという例がある。そのうちのひとつは、ローマ時代の女性「リヴォニア」としての人生だった。その内容はきわめて歴史的に正確で、ただの主婦が想像で語れるようなものではなかった。

 しかし、じきにその理由が判明した。1947年に書かれた『生きている森』というローマ時代が舞台の小説のストーリーが、ジェーン・エヴァンスの語った「前世」とそっくりであることが判明したのだ。ジェーンの話の中に登場した人物の何人かは、小説の中の架空の人物だった。つまりジェーンはずっと前に『生きている森』を読んだが、それを忘れていた。だが、そのストーリーは記憶の底に残っていた。それがよみがえった時に、「前世の記憶」と思ってしまったのだ。

 他にも同様の例はいくつもある。「前世の記憶」なるものの多くは、その人が小説か何かで読んだストーリーを思い出し、自分が体験したことのように錯覚しているのだ。

 これは小説家にとって恐ろしいことである。読んだけど忘れてる小説、観たはずなのに忘れている映画やドラマなんて、いくらでもある。それらの潜在記憶が何かの拍子にひょいとよみがえった時に、自分が思いついたアイデアだと錯覚してしまうことはありえる。その気がなくても「盗作」をしてしまうかもしれないのだ。

 以前、『魔境のシャナナ』というマンガの原作を書いた。人気が出なくて打ち切りを食らったが(笑)、実はかなり先のエピソードまでプロットを書いていた。

 連載が終わって2年ぐらいしてからだろうか。そのプロットを読み返していて、突然、そのエピソードのうちのひとつが、『うしおととら』の時逆(ときさか)の話にそっくりだということに気がついた。

 やばい。連載が打ち切られなかったら、このエピソードが日の目を見ていて、誰かが類似に気がつき、「『うしとら』のパクリだ!」と騒がれていたかもしれない。

 こうしたことは、作家をやっていたら、嫌でも起こり得る。『うしおととら』の場合、まだストーリーを覚えていたから自分で気がついたけど、完全に潜在記憶と化していたら、気がつくこともできない。

 じゃあ、どうすればいい?

(つづく)