クリプトムネジアの恐怖・3

 そこで先の筒井康隆氏の文章だ。実はあの文章には先がある。

> SFをはじめて書くきみが、やっと見つけたアイデア――そんなものは、とっくに、どこかのプロ作家が考えだし、書いてしまっているに、きまっているのだ。しかも、ずっとおもしろく、ずっとうまい文章で!

> よほど、ほかにない新しい、しかもすばらしいアイデアでないかぎり、アイデアひとつで勝負するのは、危険なのである。

──筒井康隆『SF教室』

 アイデアひとつで勝負してはいけない、と筒井氏は警告する。大事なのはアイデアではなく、そのアイデアから君がどんなテーマを語るかだと。(長文になるので、詳しくは『SF教室』を読んでほしい)

 中学時代の僕は、この言葉にものすごく感化された。

 筒井氏の言葉は、作家にとって絶望ではなく希望である。誰が最初にそのアイデアを思いついたかは重要ではない。極端な話、自分で思いついたアイデアでなくてもかまわない。他の人が考えたアイデアであっても、自分なりにそのテーマに真剣に取り組み、結果的に違う作品になればいいのだ。

 ウェルズの『タイムマシン』を思い出してみればいい。現代のSF作家の中にも、作中にタイムマシンを登場させる人は大勢いる。でも、それはウェルズの盗作じゃない。ストーリーが違っていれば別の作品だ。

 さらにタイムマシン自体も、ウェルズが世界で最初に思いついたのではない。1887年に、スペインの作家エンリケガスパール・イ・リンバウが書いた『時間遡行者』という小説が最初だと言われている(ウェルズの『タイムマシン』は1895年の作)。

 実はウェルズはタイムマシンというアイデアを何度も書き直している。1888年、アマチュア時代に書かれた初期作品「時の探検家たち」は、田舎の村に引っ越してきた変人科学者がひそかに作っていたのが、実はタイムマシンだった……という話。タイムマシンというアイデアを提示しただけで終わってしまい、なんともつまらない。

「これではいかん。やはりタイムマシンというものを出すなら、遠い未来、それこそ地球の終わりまで行くような壮大な話にしなくてはいけない」

 おそらくウェルズはそう反省したのだろう。こうして書き上がったのが、僕らの知る『タイムマシン』だ。

 ウェルズがリンバウの作品を読んでいたのかどうかは分からない。何にせよ、今ではリンバウの名は忘れられ、『タイムマシン』といえばウェルズということになっている。それだけ『タイムマシン』は優れた作品だったということだ。

 僕はよく小説を料理にたとえる。アイデアというのは食材である。食材が同じであっても、それをどう調理するかで、ぜんぜん別の料理になる。

『地球移動作戦』の元ネタが『妖星ゴラス』だというのは公言してるけど、『神は沈黙せず』や『去年はいい年になるだろう』や『UFOはもう来ない』にしても、似たようなアイデアの話はすでにいくらでもある。

 アイデアを思いついても、それだけで勝負してはいけない。そのアイデアがすでに誰かに書かれているという前提で、自分ならどう調理するか、どんなテーマを語るか、どうすれば「自分の小説」になるかを考えるのが大切だ。

 それを僕は筒井康隆氏に教わった。

「走馬灯」や「ウラシマの帰還」の問題は、「午後の恐竜」や「遙かなるケンタウロス」とアイデアが同じという点じゃなく、先行作品を超えるものになっていないってことなんである。

 一方、久野四郎氏の「勇者の賞品」は違う。「遙かなるケンタウロス」とアイデアは同じであっても、描き方がまったく異なる。

 太陽系からさほど遠くないところに、自然に恵まれた地球型の美しい惑星がある。しかし、宇宙船がその星に近づくことは禁じられている。というのも、何世紀も前、その惑星を目指して出発した植民宇宙船があったからだ。光速よりもずっと遅いスピードで、今もその星に向かっている。乗員は冷凍睡眠の状態にあり、すでに超光速航法が実用化していて、多くの惑星に人類が進出していることを知らない。そこで未来の人々は、乗員に真実を知らせないことに決め、その惑星を手つかずのまま残し、彼らの賞品とすることにした……という話。

 しかもこの話はそこで終わらない。最後の方は、乗員に真実を隠すのは正しいことなのかどうか、というディスカッションに発展するのだ。これは「遙かなるケンタウロス」のアイデアを発展させた、まったく別の作品だ。

 今では忘れられた作品だけど、僕は好き。どこかで復刻してくれないものか。

 だから「午後の恐竜」も、何かいい調理法を思いついたら、ぜんぜん違う話になるんじゃないかな……と、何十年も前から考えてるんだけど、その調理法をまだ思いつかない。